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2017年1月1日のブックマーク (5件)

  • 『プーチンのロシア(5)』

    三千万人の犠牲 そうした心理を想像する準備として、その歴史を振り返ろう。たとえば1812年6月のフランスのナポレオンはロシア遠征を開始した。優勢なフランス軍との勝ち目の薄い正面衝突を避けロシア軍は国土を焦土にしつつ後退した。家を焼き、井戸を埋めながらの撤退であった。フランス軍にロシアの国土を利用させないためである。そして首都モスクワさえ放棄した。 やがて冬になると「冬将軍」と呼ばれるロシアの厳しい寒さがナポレオンのフランス軍を襲った。補給の切れ動きのつかなくなったフランス軍をロシア軍が攻撃した。ロシア軍はパリにまで進撃した。ナポレオンの没落の始まりであった。 20世紀になってロシア帝政が倒れソ連(ソビエト社会主義連邦共和国)が成立した。このソ連を1941年6月ナチス・ドイツが奇襲した。ナイフでバターを切るようにと表現されたドイツ軍の快進撃が続いた。しかし冬になるとソ連軍が反撃に出てモスクワ

    『プーチンのロシア(5)』
    castle
    castle 2017/01/01
    「この勝利のために三千万人の国民が犠牲となったとソ連は主張~こうした経験がロシア人を安全保障に関して特に鋭敏にした。そのロシアと目と鼻の先までの西側の軍事同盟の拡大は賢明だろうかとの疑問が湧く」
  • 『プーチンのロシア(4)』

    NATOの東進 そして1985年にゴルバチョフが登場し、1989年にベルリンの壁が崩れ冷戦が終わった。翌1990年に東西ドイツが統一され、1991年にはソ連が崩壊した。その翌年の1992年にはNATO旧東ドイツをも、その守備範囲とするようになった。ロシアから見えれば、それだけNATOが近づいてきた。 さらに1999年にはポーランド、チェコそしてハンガリーがNATOに加盟した。かつてのワルシャワ条約機構の一部を構成していた地域にNATOが拡大した。ワルシャワ条約機構は、ソ連を中心する軍事同盟でありNATOに対抗していた。そこまでNATOが広がってきたのだ。 しかも、2004年にはスロバニア(かつてのユーゴスラビアの一部)、スロバキア(かつてのチェコスロバキアの一部)、ブルガリア、ルーマニア、そしてバルト三国がNATOに加盟した。その上2009年にクロアチアとアルバニアも加盟した。両国は、いず

    『プーチンのロシア(4)』
    castle
    castle 2017/01/01
    「伝統的にロシアやソ連の一部だったり、その影響下にあったりした国々にまで西側の軍事同盟を広げてるというのは、血みどろの歴史を通してロシア人の心理に染めこまれた脅威認識を呼び起こすのではないだろうか」
  • プーチンのロシア(3)|高橋和夫の国際政治ブログ

    朝鮮戦争における奮戦はトルコがソ連とNATO諸国に対する発した血で染められた鮮明なメッセージであった。ソ連に対しては、うかつに侵略すればトルコは必死の抵抗を見せるだろうとのシグナルであった。そしてNATO諸国に対しては、同盟国の一員としての義務を犠牲を厭(いと)わずに果たすだろうとの決意の表明であった。 そのトルコがギリシアと共に1952年にNATOに加盟した。トルコ軍の奮戦を見て、西ヨーロッパ諸国もアメリカの説得に応じた。あたかも朝鮮半島で流した血がトルコのNATOへの加盟料であったかのようであった。 そして西ドイツが1955年にNATOのメンバーとなった。NATOの狙いは、アメリカを西ヨーロッパの防衛に関与させ、ソ連の影響力を排除し、ドイツの再軍備を管理するという三点に集約される。第三の点は、西側の防衛力の強化には西ドイツの再軍備が不可欠だが、第二次世界大戦でドイツに占領された周辺諸国

    プーチンのロシア(3)|高橋和夫の国際政治ブログ
    castle
    castle 2017/01/01
    「ソ連に対しては、うかつに侵略すればトルコは必死の抵抗を見せるだろうとのシグナルであった。そしてNATO諸国に対しては、同盟国の一員としての義務を犠牲を厭(いと)わずに果たすだろうとの決意の表明」
  • 『プーチンのロシア(2)』

    第二次世界大戦の勝者は言うまでもなくアメリカとソ連であった。ほとんど国土は無傷で戦争中に生産力を急増させたアメリカと、国土のヨーロッパ部分の大半を占領されながらも、反撃してベルリンを占領したソ連であった。戦争が終わるとアメリカは即座に軍隊の動員解除を行った。父親を息子を夫を恋人を待つ故郷の人々の強い声にこたえる必要があったからだ。戦争が終わった以上、一刻たりとも猶予は許されなかった。最盛期には千万人を超えていたアメリカ軍の総兵力は、たちまち三十分の一に減少した。 ところがスターリン独裁下のソ連では、動員は解除されず大兵力が維持されていた。少なくとも西側は、そのように理解していた。つまり通常戦力の面ではソ連側の圧倒的な優位との認識であった。もし仮にソ連軍が西ヨーロッパに対して攻勢を始めれば西側には、これに通常戦力では対抗できない。したがって、西側は核兵器を使ってソ連軍の動きを止めるという戦略

    『プーチンのロシア(2)』
    castle
    castle 2017/01/01
    「西側は核兵器を使ってソ連軍の動きを止めるという戦略~しかし核兵器の利用はソ連側の報復を呼び起こし核戦争を誘発しかねない。という事は西ヨーロッパを守る為に米国の諸都市を核攻撃の脅威にさらす覚悟での戦略
  • 『プーチンのロシア(1)』

    「伝説的規模の戦略的失態」 NATOの旧ソ連領への拡大についてのアメリカの元外交官ジョージ・ケナンのコメント 敵を知らず己を知らず 孫子によれば敵を知り己を知れば百戦百勝も難しくない。戦えば必ず勝つ。冷戦期のアメリカの外交エリートたちは、敵であるソ連を比較的に良く知っていた。先の章で触れたスプートニク・ショックは、アメリカで理数系の教育の見直しの機運を引き起こした。科学技術の面でソ連に遅れを取ったのではないかという懸念があったからだ。同時に、ソ連研究にも力が入れられた。研究者には潤沢な研究資金が、ロシア語を学ぶ学生には奨学金が与えられた。敵を知ろうとする必死の努力であった。たとえばブッシュ息子政権で黒人の女性として初めて一期目に国家安全保障問題の補佐官を二期目で国務長官を務めたコンドリーサ・ライスはロシア語に堪能であった。ブッシュ息子政権とオバマ政権の両方で国防長官を務めたロバート・ゲーツ

    『プーチンのロシア(1)』
    castle
    castle 2017/01/01
    「米国の指導層の多くは、ソ連という国が第二次世界大戦で支払った途方もない犠牲に畏怖の念さえ覚えていたのではないだろうか。こうした敵意と敬意と畏怖の入り混じった意識が、米国の外交エリートの間で共有され」