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小田嶋隆に関するcerf310のブックマーク (5)

  • ネット弁慶が街中に現れた理由:日経ビジネスオンライン

    心を痛めている。 ……という書き出しを読んだ瞬間に 「なんだこの偽善者は」 と身構えるタイプの読者がいる。 ながらく原稿を書く仕事をしてきて、最近、つくづく感じるのは、若い読者のなかに、情緒的な言い回しを嫌う人々が増えていることだ。 彼らが嫌う物言いは、「心を痛める」だけではない。 「寄り添う」「向き合う」「気遣う」「ふれあい」「おもいやり」「きずな」といったあたりの、手ぬるい印象のやまとことばは、おおむね評判が良くない。かえって反発を招く。 彼らの気持ちは、私にも、半分ぐらいまでは理解できる。 この国のマスメディアでは、論争的な問題を語るに当たって、あえて情緒的な言葉を使うことで対立点を曖昧にするみたいなレトリックを駆使する人々が高い地位を占めることになっている。彼らは、論点を心情の次元に分解することで、あらゆる問題を日曜版に移動させようとしている。 若い読者は、そういう姿勢の背後にある

    ネット弁慶が街中に現れた理由:日経ビジネスオンライン
    cerf310
    cerf310 2013/02/22
    反韓デモ全く知らなかった。
  • 入社式で居心地の悪い思いをしたきみたちへ:日経ビジネスオンライン

    東京の桜は五分咲きといったところだろうか。水曜日(4月4日)に自転車で千鳥ヶ淵周辺を走った感触では、花見のピークは今週末になりそうだ。北の丸公園には、はやくもカメラを持った人々が溢れている。めでたい景色だ。 ところが、私は、桜の花が咲くこの季節を、心から祝福する気持ちになれない。わがことながら奇妙だと思うのだが、毎年、一斉に花開く桜の木を見ると、むしろ、内心に緊張感がよみがえってくる。 理由は、たぶん、入学や入社といった事柄に対して、私が苦手意識を持っているからだ。保守的な人間は、新しい環境に適応するのに時間を要する。というよりも、そもそも新しい環境を好まない。だから、4月のこの時期の、新しい出会いを象徴する花である桜に、圧迫を感じるのだ。 振り返ってみれば、私は、若い頃から一貫して、かなり劣悪な環境であっても、なじみのある場所にとどまることを選ぶテの人間だった。新しい出会いや、新しい枠組

    入社式で居心地の悪い思いをしたきみたちへ:日経ビジネスオンライン
  • レッテルとしてのフクシマ:日経ビジネスオンライン

    月末に福島を訪問しようと思っている。 この話をすると 「え?」 という反応が返ってくる。 「大丈夫なの?」 大丈夫に決まっている。福島の人たちは毎日そこで暮らしている。外から出かける人間が、2日か3日現地の空気を吸って土地のべ物をべたからといって何が危険だというのだ? もちろん、「大丈夫なのか」と尋ねた知人も、気であぶないと思ってそう言ったのではない。「福島」という言葉を聞いて、反射的にそういう反応をしてしまったというだけのことだ。 この反応はわりあいに一般的だ。というよりもむしろ、ほとんどの人は、ちょっと驚いた態度を示すことになっている。 「えっ、フクシマ?」 「フクシマ? ヤバくないのか?」 「取材だよな?」 「どうしてよりによってフクシマに?」 「おお、チャレンジャーだな」 悪気があるわけではない。差別しているのでもない。ただ、現状の日では、会話の中に出てくる「フクシマ」とい

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  • 青年がいなくなった日本と欧米のデモ:日経ビジネスオンライン

    ウォール街ではじまったデモは一向におさまる気配を見せない――というこの話題は、実は、先々週の当欄でとりあげるつもりでいたものだ。それがジョブズ急逝の報を受けて翌週送りになり、週が変わってみると、今度は「アラちゃん」登場のあおりを受ける形で、さらに今回にズレ込んでいる次第だ。要するに、ショボいネタだったということなのだろうか。違う。非常に重大かつ興味深い問題だ。ただ、私自身がうまく対処できていないというだけだ。だから、迷子のあざらしなんかに蹴散らされてしまったのである。 定期刊行の媒体に時事コラムを書いている人間(あるいは、もっと大きく構えて「報道に携わる者」と言い換えても良いが)にとって、世間の話題は、おおよそ以下の3つのカテゴリーに分類できる。 一つ目は、「面白そうな話」。これは扱いやすい。この種のネタに関しては、思ったことを思っている通りに書けば良い。当たっているかどうかは、書いた当人

    青年がいなくなった日本と欧米のデモ:日経ビジネスオンライン
    cerf310
    cerf310 2011/10/21
    「日本に青年はいなくなった」か。
  • 第13回 文体と主語(その2)|コラム道|平日開店ミシマガジン

    文体を歩き方になぞらえるなら、主語はに相当する。どんなを履いているのかによって、歩き方はおのずから変わってくる。頑丈なを履けば歩きぶりは重厚になるし、サンダルを突っかけて歩く人間の足取りは余儀なく軽佻になる。かように、の選び方は歩行の基礎的なリズムだけでなく、その俊敏さや踏破性にも影響を及ぼす。 よく似たなりゆきで、主語は、文章のスタイルを規定している。最初にどんな仁義を切るのかで、後の行動が制約されるように、文体は、発言の主体である書き手の名乗り方次第である程度決定してしまう。 ということはつまり、書き手は、を履き替えるように主語を使い分けることで、文体を自在に操作することができるのだろうか。 さよう。ある程度は可能だ。 「僕」で書いた文章を「私」視点で書き改めれば、それだけでコラムの印象はずいぶん違ったものになる。逆もまた然りだ。 が、主語は、書き手のアイデンティテ

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