いや、簡単ですよ。宮崎駿のお母さんが71歳で亡くなっている。 彼は72歳。一年余分に生きているので、いつあれしてもおかしくない。 そう思って言っただけです(笑)。 ただね、死はいつが訪れるか分からないでしょ? だから死を強く意識すれば、人は充実して生きる。 僕は、そう思っています。 それに僕はプロデューサーなので、そういうことを『風立ちぬ』に無理矢理くっつけて話しますが(笑)、これは戦争中の物語。 戦闘機に乗るということは、常に死が隣り合わせにある。そういう緊張感ある映画だなとは思います。 映画の中に、こういうセリフが出てきます。 “飛行機は美しい夢だ。しかし、同時に呪われた夢でもある。”と。 いい言葉だなあと思ってね。 宣伝に使っていこうと思っていますけれど(笑)。 ―いい言葉です。『風立ちぬ』は、その時代が内包した“矛盾”もテーマになっていますか? まあ、そういうことです。いや、宮崎駿
「残るのは作品、お金じゃない」−いいですね。ジブリのプロデューサー鈴木さんの言葉です。 年俸9億ン万円だった日産のゴーン社長やブラック企業とも言われるユニクロの柳井会長に聞かせたい。 「今の時代はどう映るのでしょう?」の問いに、「19世紀は需要と供給のバランスがとれていた。生産者はみんなが必要と思っていたものをつくっていた。20世紀は必要のないものをつくって広告の力で売りまくる時代。この商業主義が世の中をややこしくした。21世紀はその価値観が変わると思う。必要じゃないものはいくら宣伝しても消費者に届かない。もう一度本当に必要なものをつくる時代に戻るんじゃないか。そのプロセスの混乱期が現在…」 私もそう思います。多くは過剰です。(一部の人にとっては、餓死しなければならない程不足ですが) 商品経済社会、自分が使うためでなく、他人が買うために生産する社会。そして廃棄はタダの社会。 でも、それは地
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『もののけ姫』『崖の上のポニョ』などで、アニメ映画を世界に誇る日本文化にまで押し上げた宮崎駿。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズでヒットを飛ばしつづける庵野秀明。日本のアニメ界を代表する二人の師弟関係、ライバル関係をプロデューサー・鈴木敏夫が語る。 宮さん(宮崎駿)と庵野、二人が出会ったのは『風の谷のナウシカ』(一九八四年公開)の製作現場でした。いま思えば『ナウシカ』は宮崎駿監督の名を一般に広め、アニメ映画の位置づけを変えた作品でした。僕が初めて企画、原作からアニメ映画に関わった作品でもあります。当時の制作会社トップクラフトはスタジオジブリの前身です。 公開が五カ月後に迫った八三年秋頃、制作が遅れて「非常事態宣言」が出されていました。そのとき阿佐ヶ谷の宮さんの仕事場に現れたのが、大阪芸術大学をやめたばかりの庵野秀明でした。 自分が制作したアニメの原画を持参した彼は、まるで武者修行中の道場
「館長 庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」と題した展覧会が今夏、東京都現代美術館で開かれる。「エヴァンゲリオン」シリーズなどで知られる庵野監督だが、その創作活動の原点であり、多大な影響を与えてきたのは、幼少期から愛した「特撮」だった。CG全盛の今、特撮で使われたミニチュアや小道具は失われつつある。展覧会は、こうした状況を何とかしたいという庵野監督の思いで企画された。 巨神兵! 会場では、「海底軍艦」(1963年)の轟天号、「マイティジャック」(1968年)の万能戦艦マイティ号、「帰ってきたウルトラマン」(1971年)のマットアローなどのスーパーメカ、ウルトラマンを始めとするヒーロー、ゴジラやガメラといった怪獣、精巧に作られた東京タワーなどを展示する。特撮作品をリアルタイムに見た大人にとっては懐かしく、初めて見る子供にとっては新鮮な気持ちで楽しめそうだ。 特撮映画の撮影所に
すずき・としお 1948年生まれ、愛知県出身。徳間書店「アニメージュ」編集部を経て、89年からスタジオジブリに参加。一連のジブリ作品をプロデュースし、現在は株式会社スタジオジブリ代表取締役プロデューサー。著書に「映画道楽」(ぴあ)、「仕事道楽 スタジオジブリの現場」(岩波新書)。 夢が叶う確立を上げる方法 才能のある画家のそばには、才能のある画商がいる。宮崎駿監督のそばには、鈴木敏夫がいる。僕は、日本一優秀なプロデューサーだと思う。どこが、普通のプロデューサーと違うのか。 第一に挙げられるのは、話が面白いということだ。人を笑わすというより、聞き入ってしまうような興味深い話をしてくれる。その上、聞き上手でもある。だから、彼の周りには、人が集まる。どんな気難しい人もそばに行きたくなるのだ。 次に、個人的には、無欲であること。スタジオジブリとしては、次の作品を作るためにビジネスとしても成功し
ホテルのフロアは、300人あまりの映画館主や映画関係者で静かな熱気に包まれていた。 2月10日、東京・新橋。この夏、東宝が公開する作品を一度に紹介する「宣伝キャラバン」だ。会場には「踊る大捜査線」シリーズなどの看板がずらりと並ぶ。 スポットライトに照らされた壇上で、それぞれの担当者が「今年の夏はこの映画です」とアピールする。 スタジオジブリの番が来た。静まりかえった会場に、鈴木敏夫が登壇した。 「金曜日に『崖の上のポニョ』がテレビ放送されまして……」 鈴木は夏の新作でなく、2008年に公開された前作の話を始めた。テレビの視聴率は29.8%を記録した。しかし、数字の詳しい分析結果が、引っかかっていた。 「自分も含めたいわゆる『おじさんたち』に見てもらえなかった」 放映された金曜午後9時、世の中高年男性は何をしていたのか。「家族が待つ家に、仕事で帰れなかったのか。別の番組を見ていたのか。男の子
「明治」のきのこの山 鈴木敏夫さん 2011年12月9日 印刷 Check 鈴木敏夫さん 「明治」のきのこの山〈明治「きのこの山」を楽天で検索〉 かれこれ30年、毎週5箱は買っています。原稿を書く時や映画を見る時の「友達」は必ずきのこの山。リラックスしている時に食べます。 娘が小さい頃、箱の中にビスケットだけを入れて驚かせるイタズラをしていました。舌を指先と同じように使えるので、舌先でチョコを外すんです。10秒くらいで出来ます。(姉妹商品の)「たけのこの里」よりビスケットがパリパリしてるし、チョコの溶け方も好みなんです。何よりビスケットとチョコを外す楽しみがある。舌を使ってチョコを口の中の色んなところに貼り付けると、残しておきたいのに消えていく……。そのはかなさもまた味わいたいんです。 でも最初からビスケットとチョコが分かれていたら嫌でしょうね。手間のかからないものってのはつまんないもんな
すずき・としお 映画プロデューサー。1948年名古屋市生まれ。72年慶応大卒業後、徳間書店入社。「週刊アサヒ芸能」編集部を経て、アニメーション雑誌「アニメージュ」創刊に参加した。編集長などを務めながら、「風の谷のナウシカ」「火垂るの墓」など、宮崎駿、高畑勲監督のアニメーション映画を製作。85年にスタジオジブリを設立、「おもひでぽろぽろ」「千と千尋の神隠し」「ゲド戦記」などのヒット作のプロデュースを手がけた。最新作は公開中の「コクリコ坂から」。著書に「ジブリの哲学」など。 物心ついた時に、ラジオから聞こえてきたのが、広沢虎造の「清水次郎長伝」でした。親父(おやじ)が好きで、映画にも連れて行ってもらいました。次郎長を演じていたのが片岡千恵蔵で、だんだん、僕の頭の中に次郎長像が作られていったんだけど、それを打ち壊したのが「次郎長三国志」シリーズだった。 中学生ぐらいだったかなあ。テレビで初めて見
“Hoga Holic”サイトにて、石井朋彦さんのインタビューが公開されました。 石井朋彦さんは、以前スタジオジブリで鈴木敏夫プロデューサーに師事して、『千と千尋の神隠し』や、『ハウルの動く城』でプロデューサー補として活躍した方です。 2006年からはプロダクションI.Gに移籍して、押井守監督の『スカイ・クロラ』や、神山健治監督の『東のエデン』などのプロデュースをしています。 これからのアニメーション業界を引っ張っていく方なので、神山さんと石井さんのコンビには期待ですね。 スタジオジブリの鈴木敏夫さんこそが、僕の目指す唯一のプロデューサー像 ――スタジオジブリにはいつまでいらっしゃったんですか? 石井: 『ホーホケキョ となりの山田くん』(99/高畑勲監督)から『ゲド戦記』(06/宮崎吾朗監督)の製作終了までいました。その後、『イノセンス』(04/押井守監督)という作品でご縁があったので、
父が既製服の製造販売業を営んでいました。自宅の2階が仕事場で、従業員など大勢の人で騒がしかったからか、今でもそういう環境の方が落ち着きます。私はその頃から手先が器用で、仕事場にあった反物の芯や道に落ちていた五寸クギなどで刀や手裏剣を作って仲間に配り、小学校の別のグループと戦ったものです。 学校の帰宅途中にある徳川園という公園が私たちの遊び場でしたが、3年ほど前に訪れて驚きました。有料の日本庭園に変わっていたのです。子供を排除したのだと怒りを感じました。 子供は外で遊ぶべきだと思いますが、今はその場所がとても少ない。自由に遊べた当時の楽しさが忘れられないからこそ、今でも子供向けの物を作っているのかもしれません。 地元の東海中、高に進みましたが、当時の大学紛争のうねりが私の高校にも及んでいました。映画「コクリコ坂から」では、その時代の雰囲気を出すため、脚本を担当した宮さん(宮崎駿監督)から徹底
――出来上がった絵コンテを見た感想は。 鈴木 これは僕よりも他の人の言葉で紹介した方がいいと思いますが、名アニメーターの大塚康生さんは、「映画として素晴らしい」と絶賛した上で、誰が描いたのか聞いてきたので、吾朗君ですよと言ったら、「蛙の子は蛙だったんだ」と心底、驚いていました。また、庵野(秀明)に見せたら、吾朗君の年齢を38歳だと知り、「どうしてもっと早くやらなかったんだ」舌を巻いていた。そして、「これは完全に宮崎アニメですね」と。 ――駿監督の反応は。 鈴木 見ていません。吾朗君の監督起用に対し、「鈴木さんはどうかしている」と意見を言っていましたからね。「あいつに監督ができるわけがない。絵も描けないし、何も分かっていないやつなんだ」と怒り出した。そこでまず、吾朗君が描いたポスター用の竜とアレンが向き合った絵を見せたんです。そうしたら黙ってしまいました。宮さんの描かない横からのカメラアング
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数々の名作を生み続けるスタジオジブリ。『となりのトトロ』や『もののけ姫』、あるいは昨年公開された『崖の上のポニョ』。誰しも一度はジブリ作品を観たことがあるだろう。しかし、これらの作品はある一人の男が宮崎駿を見出さなければ、私たちの目に触れることはなかった。その男、鈴木敏夫は言う。「この人を世に出す。それが面白くなる人生だと思った」。(佐藤譲・京都大学) 「めんどくさいなぁ」。隣の部屋から声が聞こえてきた。鈴木さんだ。廊下に「ペタッペタッ」という音が響き、近づいてくる。この取材のことを言っているのだろうか。体が強張る。 スタジオジブリのオフィスはJR中央本線の東小金井駅から歩いて10分ほどのところにある。約束の時間より少し早く着き、プロデューサー室で待っていた。映画に関する資料が本棚に並ぶ部屋。出てきたお茶は、トトロの絵が描かれたコップに入っていた。 鈴木さんは会社にいるとき、裸足に雪駄を履
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