東学党の乱 前回の歴史ノートで明治二十七年(1894年)三月に起きた金玉均の暗殺のことを書いたが、その翌月に「東学党の乱」(「甲午農民運動」とも言う)と呼ばれる大規模な農民の反乱が朝鮮半島南部で起きている。 菊池寛の『大衆明治史』(GHQ焚書)には次のように解説されている。 明治二十七年四月、朝鮮全羅道古阜県に乱民蜂起し、国政改革を名として、殺戮を逞(たくま)しうし、忠清、慶尚道に及びその勢い猖獗を極め、最早朝鮮の軍隊では、どう手の下しようもなくなった。 この徒を東学党と称し、東学という一種の教派から出た宗教団体であって、…その教えは、儒、仏、道教を折衷混合したものであった。 ・・・中略・・・ 東学党の勢いいよいよ熾(さか)んになり、いたるところ官兵敗れ、京城(ソウル)も危険に瀕して来たので、朝鮮政府は清国に援助を求めることになった。 この時の支那の駐韓公使は怪傑袁世凱(えんせいがい)であ