これまでこのブログで採り上げたドイツ・ナチス関連のGHQ焚書 これまでドイツやナチスに関するGHQ焚書について記事をいろいろ書いてきたが、これまでこのブログで採り上げたきた本の記事をブログカード化してみた。気になった記事がもしあれば、読んでいただければ幸いである。また、今後新たに採り上げた書籍の記事は、ブログカードを追加していく予定である。
![ドイツ及びナチス関連のGHQ焚書リスト](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/5e0cd7eefa0e0588afb06dd6b6b956f8278c0a12/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fshibayan1954.com%2Fwp-content%2Fuploads%2F2021%2F10%2F46e1083e01469996e77230a3d9bcf82b-e1634212893427.jpg)
前回の「歴史ノート」で、「リットン報告書」の内容はどのようなものであったかについて書いたのだが、調査団が決して公平中立的な立場で情報収集していなかったことは、当時の新聞にもしっかりと報じられている。戦前の日本人なら誰しも憤慨したであろう重要な事実が、戦後の歴史叙述の中では採り上げられることがほとんどない。 今回は当時の新聞記事や論調を読みながら、戦前の日本人がリットン調査団についてどのような印象を抱いたかを考察することと致したい。 満州国の治安を心配していた調査団 張学良 前回記事で、リットン調査団が三月に北平を訪れた際に張学良が設定した歓迎の宴に招かれて出席したことを書いた。中立的な立場で調査をすることが求められる調査団が、張学良の接待などを受けるべきでないことはいうまでもない。その後調査団が満州に向かおうとすると、満州国が調査団メンバーの一人でありかつて張学良の手下で働いていた顧維鈞(
これまで英国関連、米国関連の焚書リストを紹介させていただいたが、満州関連のGHQ焚書リストの点数が、英国と米国のGHQ焚書点数を合計した点数したよりも多いというのは、私にとっても意外であった。 GHQが戦後の日本人に読まれないように処分した本には、余程戦勝国にとって都合の悪い史実が描かれている点にあると考えるのだが、それが正しいとすると、満州に関しては彼らにとっては知られたくないことが記されているということになる。 これまでこのブログで採り上げた満州関連のGHQ焚書 『満蒙事変大写真帳』(GHQ焚書) 表紙 満州についてはテレビや新聞で解説されることはほとんどなく、ようやく最近になって「国立国会図書館デジタルコレクション」や「神戸大学新聞記事文庫」などで読み始めたばかりで、まだまだ満州については勉強不足である。これまでこのブログで何度か満州に関するGHQ焚書について記事を書いてきたが、それ
リットン調査団の派遣 一九三一年昭和六年九月十八日に満州事変の発端となった柳条湖事件が起きたのだが、その三日後に支那政府は紛争の拡大防止を国際連盟に提訴している。それを受けて国際連盟理事会が開かれたのは九月三十日のことで、この時には支那の提案はいったん拒否されたが、この問題について十月、十一月にも理事会が開催され、日本側からは調査団の現地派遣と支那全体を調査対象とすることが提案されたのだが、支那がそれを拒否したという。しかしイギリスが支那を説得したこともあり、十二月十日の理事会で全会一致で調査団の派遣が決定した。メンバーは英米仏独伊の五ヶ国から選ばれることになり、イギリスのリットン伯爵が委員長となったことからこの調査団を「リットン調査団」と呼ぶことが多いのだが、正式名称は「国際連盟日支紛争調査委員会」という。 中華民国の上海に到着した国際連盟日支紛争調査委員会調査団一行(Wikipedia
柳条湖事件が起きるまでに満鉄施設が何度支那人に襲われたか このブログで何度か昭和六年(1931年)に満州事変の発端となった柳条湖事件のことを書いてきた。 繰り返しになって申し訳ないが、満州事変に関するわが国の戦後の歴史叙述では、昭和三十一年(1956年)十二月に発行された雑誌『別冊 知性』第五号に、元関東軍参謀の花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」という記事が掲載されて以降、柳条湖事件は関東軍が満鉄線路を爆破したことが通説となっているのだが、この雑誌の記事は花谷正本人が書いたものではなく、当時二十三歳の東大生であった秦郁彦が花谷に取材し、自分の名前を伏して花谷正の手記として発表されたものだという。当時は満州事変にかかわった本庄繁、板垣征四郎も、石原莞爾もすでに他界しており、その雑誌記事の真偽は今となっては確認のしようがないのだが、満州事変が関東軍の自作自演であると主張する研究者の
張学良軍が総崩れとなった理由 一九三一年九月十八日、奉天から北東に八キロ程の柳条湖で、南満州鉄道の線路が何者かによって爆破された。この付近の警備に当たっていた関東軍守備隊は大隊本部と特殊機関に報告をし、関東軍はこれを張学良率いる東北軍の仕業として、奉天市の北郊外にある彼らの駐屯地・北大営を攻撃し占拠した。 当時関東軍の兵力はそれほど多くはなかった。条約により満鉄を守備する兵力は一キロ当たり十五人まで規定されていたため、関東軍は司令部要員を含めて総数一万五千人程度であったのだが、一方の張学良軍には三十万とも四十五万とも言われていた。事件当時張学良は十一万五千の兵を率いて北平(現在の北京)に滞在していて、北大営ほか瀋陽や寛城子などに残りの兵を駐屯させていたのだが、わずかな兵力であったにもかかわらず関東軍は翌十九日中には満州南部の主要都市のほとんどを占領してしまったのである。 それまで排日侮日に
柿本神社と月照寺 明石市の人丸山の頂上に柿本神社(明石市人丸町1-26)と月照寺(明石市人丸町1-29)がある。明治四年(1871年)の神仏分離令により寺と神社が分離されてしまったのだが、以前は神仏習合で一体であった。 上の画像は柿本神社の東鳥居である。 柿本神社の御祭神は飛鳥時代の歌人で、山部赤人とともに歌聖と仰がれた柿本人麻呂である。「人麻呂」は「人麿」とも書き、平安時代からは「人丸」と書かれることが多いという。 柿本人麻呂が明石と縁のある人物とは、恥ずかしながら今回の旅程を立てる時に初めて知ったのだが、明石で人麻呂が詠んだ歌がいくつか残されていて、案内板には神社の由緒とともに次の二首が案内されていた。 「天離(あまざか)る 夷(ひな)の長通(ながち)ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ」 「留火(ともしび)の明石大門(あかしおおと)に入(い)る日にか 漕ぎ別れなむ家のあたり
明石市を観光で訪れる人はあまり多くないと思うのだが、色々調べると結構面白そうな寺や神社などがあるので、先日散策して来た。 御厨神社 最初に訪れたのは明石市二見町東二見1323にある御厨神社(みくりやじんじゃ)。この神社の由緒は火災で記録を焼失してしまったために創建の年月などは詳らかでないが、社伝によると神功皇后が新羅遠征の時に二見浦に船を休ませて兵糧を集めたので、神名を御厨と言われるようになったそうだ。以前はもっと二見浦に近い場所(現在の君貢(きみつぎ)神社:明石市二見町東二見1)にあったのだが、長歴年間(西暦1037~1039年)に現在地に移されたという。 御厨神社 鳥居 祭神は応神天皇と菅原道真と素戔嗚尊の三神だが、『播磨鑑』には天満宮とあり、左天満天神(菅原道真) 中八幡宮(応神天王、神功皇后)右牛頭天王を三社相殿に祀る、とある。 御厨神社 社殿 上の画像は社殿だが、拝殿の壁には古い
満州における匪賊・共匪との戦い 前回記事で昭和10年ごろに支那共産党が匪賊を取り込んで北支(現在の華北で、河北省、山西省、山東省、河南省)に移動させたことで北支の共産化が進み、一方ソ連も満州の匪賊を取り込んでいて、日本軍が駐留していた満洲においても、共匪に襲われて日本人の犠牲者が出た事件が何度か起きたことが新聞で報じられていることを書いた。その後満州はどのようになったのか。満州に関する記事を中心に見ていくことにする。 「神戸大学新聞記事文庫」朝鮮・台湾・満州16-18 上の画像は昭和11年3月6日の満州日日新聞だが「三月四日現在関東局調査による匪賊状況は、活動匪首三十三名、その匪数一千百七十四名、同集団数二十五名」とあり、随分匪賊が少なくなっているように読める。 しかながら匪賊というものは、捕まえられそうになれば逃げて姿をくらまし、さらに平民の姿に変身してしまえばまず捕まることはないし、安
満州馬賊の頭領 前回記事の最後に昭和8年(1933年)3月19日から連載された満州日報の武装苦力の話の一部を紹介させていただいたが、支那で匪賊の討伐軍を起こし匪賊の根拠地に向かわせたところ、討伐軍が「匪賊平定」を声明したので確認すると、匪賊の頭目はその日から官軍の将官になっており、部下の頭目たちはそれぞれ将校に任ぜられ、手下の匪賊どもはすべて官軍に編入されていたという話には多くの読者が驚かれたと思う。彼らは実際には戦わず、勝ったことを演技で伝えて報奨金を受取ろうとするのだ。 「神戸大学新聞記事文庫」軍事(国防)29-26 彼らの支那の戦争の仕方については次のように記されている。 彼等は戦争の前に、チャンと勝利計画というものを造って置く。支那の戦争は選挙のようなもので最大多数の兵数を集めたものが勝と決っている。戦争が始まると、先ず型通り相手の軍備の欠点を数え上げ、こっちがこの位優勢だというこ
琿春(こんしゅん)事件 前回の歴史ノートで支那や満州における匪賊(土匪ともいう)について書いたが、多くの日本人が匪賊によって殺害されたことが最初に新聞に報じられたのは、大正九年(1920年)の琿春事件(間島(かんとう)事件ともいう)であろう。この事件の半年ほど前に、アムール川河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件(尼港事件)があり多くの日本人居留民が虐殺されたばかりだが、琿春事件でも多くの日本人及び朝鮮人の犠牲者が出ている。尼港事件についてはこのブログでも書いているので、興味のある方は以下の記事を参考にしていただきたい。 戦後の長きにわたりタブー視されてきた尼港事件の新聞記事を読む~~尼港事件1黒龍江がオホーツク海に注ぐ河口にあるニコラエフスク(尼港)には7百人を超えるの日本人が住んでいたが、1920年1月に共産パル
前回記事で、満州は満州族の故地で漢民族はかつてわずかしか居住していなかったのだが、清末以降に大量の漢民族が満州に移り住むようになって、一九三八年頃には満州の人口の九割が漢民族となったことを書いた。今回はこの点についてもう少し詳しく書くことと致したい。 満州で漢民族の人口が大幅に増加した主因 長野朗(ながのあきら)の作品は今までこのブログで何度か採り上げさせていただいたが、彼の『満州の過去と将来:満洲問題叢書. 第5巻 』(GHQ焚書)には次のように解説されている。わが国が満州に巨額の投資を行っている最中にこのような問題が進行していたのである。 清朝になってその故郷の漢人の為に占められることを虞(おそ)れ、封禁の令を下して漢人が従来住んでいた遼東の地からさらに北進することを禁じた。しかるにロシア勢力の東漸は支那をしてこれに備えるため辺境移民の必要を感ぜしめたが、それは大したものではなかった。
じーぴー03 上場廃止が決まっているゼットンから最後の株主優待が届いていました(・∀・) じーぴー01 最後のお食事券で残念だけど仕方がないね! 今回はゼットンの株主優待について解説していきます。 ゼットン 公式サイト 株式投資歴20年以上のじーぴーが実際に保有している優待株をブログ記事にまとめました。 皆様の参考になれば幸いです。 どうぞ最後までご覧ください。 【3057】ゼットンの株主優待の内容 株主優待の内容 ゼットンお食事券 ゼットンから最後の株主優待が届きました∠(`・ω・´) 上場廃止で今回が最後です^_^; 親会社のアダストリアに期待ですが未保有でしたorz pic.twitter.com/CYgsKd6lE5 — じーぴー01@明日の事は明日やる (@GP01fb13) May 3, 2024 じーぴー01 これが最後となります(´・ω・`) じーぴー03 親会社のアダスト
わが国が「満州」の開拓を始めた歴史的経緯 「満州」という言葉は「州」の字が付くことから、地名と誤解されることが多いのだが、中国語では土地の名前ではなく民族名、即ち満州民族を意味している。しかしながら、清国を支配した満州族の居住地域を、英語で「マンチュリア(Manchuria)」と呼ばれるようになり、それに対応してわが国でも中国東北部を「満州」と呼ぶようになったとされる。 『大満洲国建国紀念写真帖』昭和9年刊 より 上の画像は1932年に成立した「満州国」の地図で、清国の「東三省」*(トウサンショウ:黒竜江省、吉林省、奉天省の三省)及び内蒙古、熱河省を領土としていた。本来は「満州」という言葉は、満州族の故地である清国の東三省を意味するが、わが国では「満州国」の領土を指すことが多いと言う。 *東三省:この地名は戦後は用いられていない。また奉天省は今は「遼寧省」と呼んでいる。 戦後のわが国におい
GWも過ぎ 皆さん普通の日常に戻られたと思います。 先日 撮ってきた写真です。 ライラックの花、薄紫色が綺麗ですね。 お馴染みのチューリップ。 公園に沢山咲いていたスノープリンセス。 スミレの白花です。 木の穴から顔を覗かせているコムクドリのオス。 コムクドリは、よく見かける普通のムクドリとは生態が全く違っていて、海の向こうからやって来て日本で夏を過ごし、海を渡り また帰ってゆきます。 こちらは一緒にいたペアのメスです。 -------------------------------------------------------- 今回は、この曲を選んでみました。 空と君のあいだに/中島みゆき 1994年の5月にリリースされ、オリコンの1位に なった曲です。 皆さんも よくご存じだと思いますが、ドラマの『家なき子』の主題歌となり、ドラマ共々大ヒットし大きな話題になりましたね。 中島みゆき
アフィリエイトは本当にペナルティとの勝負という側面があります。 もちろん、徐々に徐々に真っ当な記事を投下し続けているだけなら、 ほとんどのケースでペナルティを受けることはありません。 しかし、何らかの手違いや、SEO効果を狙って、 ちょっと普通と違うことをすると、すぐにペナルティのリスクがやってきます。 そういう意味では、アフィリエイターは常に、ペナルティと背中合わせのしごとをやっているようなもので、かなり苦しいと言えます。 どんなに、真っ当なことをやっていても、 Googleから、 「それはNG」とペナルティを受けたら、 それが正解になってしまう、 悔しい部分が多いのは事実です。 そういう意味で。 アフィリエイトサイトの作業は、 手を動かすべきか? それとも、これ以上早めるべきか? 判断に迷う部分がたくさんあります。 しかし少なくとも。アフィリエイトにおいては、そういうリスクを背負いつつ
私としては心地よい季節ですが 暑がりな息子(小2)は 汗だくで学校から帰ってくる日も多くなった。 ↑アナタ、今からそれで真夏どーすんの…??って心配になる…(-公-;) Tシャツの上にロンT着せて登校させても 学校着いたら速攻脱ぐらしい(^0^;) 今のうちから夏に向けて色々準備しておかないとな… って事でネッククーラーを買い足した! ネッククーラーの買い足し まずはダイソーでこれ▼ クールネックバンド(M) 価格:550円(税込) 娘にいいかな~と。 28℃以下で凍結するタイプです( ̄▽ ̄)b サイズ的には▼ 首回り30~35cm 息子用に「S」も欲しかったけど ダイソーにはなかったので サンドラッグでこちらを▼ フロスティリング(S) 価格:1078円(税込) Sサイズって事で勝手に 息子でもOKなサイズだと思ってたんだけど やっぱりちょっと大きいかも(^0^;) ちなみに、ダイソーの
727: 名無し 2024/05/07(火) 04:37:24.08 クエストを同時に受けられるの16個までって上限もなくしてほしい ストーリーで訪れた場所で複数のお使いまとめて消化したいのに制限のせいで受注控えるからあとでまた行かされてダルいわ761: 名無し 2024/05/07(火) 14:29:25.99 >>727 人に要求する前にまずお前が変われ お前みたいな馬鹿がそういう要求するから運営が真に受けて いらない手間かけるんだよ受注クエ数が20になっても24になってもお前はやらない で文句を言う763: 名無し 2024/05/07(火) 14:31:48.78 >>761 無制限になったら次は 受けるの面倒だから始めから受けてることにしてくれ とか言いそうだよなw 728: 名無し 2024/05/07(火) 06:57:34.83 荷物の制限と言えば7買ってないのにクエスト紹
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