2008年7月9日のブックマーク (3件)

  • 「似非科学を似非科学的に批判すること」への追記 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    二つほどトラックバックをいただいたので、それぞれについて。 まずはApemanさんから。>「「疑似科学と平和運動」について再び」 「似非科学的な人が市民運動やってると、市民運動全体の信用を下げるから問題だ」という発想が「似非科学的な人が護憲を主張してるから、護憲の主張自体もうさんくさい」という発想を「採用」したことになるのか。 批判の一部としてであれ、それを前提にして批判しているのですから、ならないわけがないでしょう。 ここには確かに考えるべきところはあって、あくまで「それはそれ、これはこれで評価すべき」と原理原則にのっとった反論をすべき、という考え方はあるでしょう。ただし私自身は、上で言及したエントリでも書いたように、陰謀論とか疑似科学的発想は「個別の」誤りではなく「体系的」に誤りを生みだす思考様式だからこそ問題にすべきだと考えているので、例えば「護憲」といったごく荒っぽいくくりにおいて

    「似非科学を似非科学的に批判すること」への追記 - モジモジ君のブログ。みたいな。
  • バカへの信を問う - モジモジ君の日記。みたいな。

    「十字軍はバカに勝てるか」では、「バカ」の中身をまったく説明せずに用いた(108回も)。では、バカとか賢いとかは、どのように考えればいいのか。何やら質主義的な定義をしている人もいれば、そもそも「バカ」という記号を忌避して事足れり、としている人もいる。そんな単純な問題ではなかろう、とは思う。以下、述べていく。 「バカ」という記号とその構造 さて、この記事についての検討からはじめよう。>「あなたの周りにいる人はバカばかりですか?」@Skepticism is beautiful 僕がある人を指して「バカだ」と言うとき、それは僕の認識枠組みにおいて、その人が、なんらかの不十分さや欠落を持っている人として評価されている、ということを意味する。どういう理由でかは別にして、ともかく、僕の位置からはそう評価されていることを意味する。逆に言えば、「何かが欠落した奴ら」「欠落していない私たち」という枠組み

    バカへの信を問う - モジモジ君の日記。みたいな。
  • 生政治/ホモ・サケル/人道的介入 - 過ぎ去ろうとしない過去

    近代的な「生-権力」は人間がまさに可死的なものであることを出発点とする。そのため、権力は「生きるままにさせておく」または「死なせる」ものから、「生きさせる」または「死の中へ廃棄する」ものへと変容するのである。フーコーにおいて前者と後者の権力は区別されたものであったが、アガンベンはこの両者が一致する現代的な全体主義国家の分析においては、この区別が問題化されると指摘する。 フーコーが1976年のコレージュ・ド・フランスでの講義でこの問いに与えている答えはよく知られている。すなわち、人種差別とは、生-権力が人類という生物的な連続体のうちに区切りを刻みこむことを可能にし、そうすることによって「生かす」システムのうちに戦争の原理をもちこむものにほかならないというのである。(p111)*1 この生の連続体において、生の政治と死の政治は無媒介に一致するというのである。生政治は、この区切りにおいてしだいに

    生政治/ホモ・サケル/人道的介入 - 過ぎ去ろうとしない過去