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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (71)

  • 平家物語 - 我が九条

    祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし たけき者もつひには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ 遠く異朝をとぶらへば 秦の趙高 漢の王莽 梁の朱异 唐の禄山 これらは皆旧主先皇の政にもしたがはず 楽しみをきはめ 諌めをも思ひ入れず 天下の乱れん事を悟らずして 民間の愁ふるところを知らざりしかば 久しからずして 亡じにし者どもなり 近く朝をうかがふに 承平の将門 天慶の純友 康和の義親 平治の信頼 おごれる心もたけき事も 皆とりどりにこそありしかども まぢかくは六波羅の入道 前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま 伝へ承るこそ心もことばも及ばれね 何となくこのフレーズが頭に浮かぶ今日この頃。

    平家物語 - 我が九条
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    comzoo 2009/08/31
  • ほー - 我が九条

    選挙期間中は自分の支持する政党とかを書いたらまずいのか、と思っていたが、どうもそうではないようだ。阿久根市のブログ市長こと竹原信一市長が特定の候補と政党を支持することをブログに書いたことに関して、阿久根市選挙管理委員会は「投票を呼び掛けたのではなく、あくまで個人の主張を述べたもの。選挙活動とはみなされないと判断した」(「http://www.47news.jp/CN/200908/CN2009082101000430.html」)としたそうで、ブログで支持政党を表明するのは問題ないようだ。 一応公職選挙法146条を 何人も、選挙運動の期間中は、著述、演芸等の広告その他いかなる名義をもつてするを問わず、第142条(文書図画の頒布)又は第143条(文書図画の掲示)の禁止を免れる行為として、公職の候補者の氏名若しくはシンボル・マーク、政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若し

    ほー - 我が九条
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    comzoo 2009/08/23
  • 悩む選挙区 - 我が九条

    選挙情勢についてはニコニコ動画を除いてはどこもほぼ一緒。民主党圧勝の流れはどうも変わらないようだ。選挙について下手にブログの記事にすると公選法にひっかかるかと思われたが、阿久根市の竹原信一市長のブログに対する阿久根市選管の見解で、一つの基準が示された、と言ってよいだろう。つまり「個人の主張を述べたもの」であれば「選挙活動とはみなされないと判断」する、ということだ。至極当然と言えば当然である。 ちょっとしたネタで「困る選挙区」というのを考えてみた。 基的に投票したい候補が決まっている人はいい。私みたいにとりあえずブサヨで9条病の人間は入れるべき候補がいない、ということはままある。 例1 入れる候補がない 鹿児島4区は自民党前職(公明推薦)と幸福実現党新人・民主党新人(国民新党推薦)である。護憲を掲げている社民党と共産党がいない! このような選挙区は結構多いと思う。昔は共産党がとにかくほとん

    悩む選挙区 - 我が九条
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    comzoo 2009/08/23
  • 知里幸恵日記を読む 4 大正11年7月12日 - 我が九条−麗しの国日本

    知里幸恵の日記を読み、近代日におけるアイヌへの視線、近代日に生きたアイヌの姿を考えようと言う企画。 前回に引き続き、近代日のアイヌに対する視線を見ていく。 岡村千秋さまが、「私が東京へ出て、黙ってゐれば其の儘アイヌであることを知られずに済むものを、アイヌだと名乗って女学世界などに寄稿すれば、世間の人に見さげられるやうで、私がそれを好まぬかも知れぬ」と云ふ懸念を持って居られるといふ。さう思っていたゞくのは私には不思議だ。私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある?!たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先でばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。アイヌだから、それで人間ではないといふ事もない。同じ人ではないか。私はアイヌであったことを喜ぶ。私がもしかシサムであったら、もっと湿ひの無い人間であっ

    知里幸恵日記を読む 4 大正11年7月12日 - 我が九条−麗しの国日本
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    comzoo 2009/08/23
  • 知里幸恵日記を読む 3 大正11年6月29日 - 我が九条

    『知里幸恵日記』を読んでいく企画。とりあえず和人のアイヌへの視線を中心にみていく。 幸恵は『アイヌ神謡集』を著すために東京の金田一京助邸に滞在していた。金田一のアイヌ学に関して言われることは、金田一がアイヌ語にのみ関心があり、現状のアイヌに対する関心が薄かったことである。金田一がアイヌ学に関心を持ったきっかけは、上田万年の日語創成プロジェクトにおいて、アイヌ語の研究を岩手県出身の金田一に任されたことである。ある意味金田一のアイヌ語研究の動機は他律的なものではあったのだ。萱野茂元参議院議員も金田一に対しては「有名なアイヌの研究家が最近死んだよね。アイヌの人々のあいだから、一つとして悲しみの声は聞かれなかったよ」と辛辣な見方をしていた。これは金田一の学問、ひいては近代日の学問体系の限界が現れている、とみることはできる。 しかし幸恵の日記をみる限り、金田一は全くアイヌの現状に無関心であったわ

    知里幸恵日記を読む 3 大正11年6月29日 - 我が九条
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    comzoo 2009/08/13
  • 知里幸恵日記を読む 2 大正11年7月18日 - 我が九条

    大正11年7月18日の日記の考察の続き。日記を再掲する。 宮下長二といふ青年が私を訪ねて来た。あんまり真面目な人に見えなかった。が、それは私の間違ひかも知れぬ。トメさんと文通してるといふ。 研究するんぢゃなくて、たゞ好奇心からアイヌの歴史をきゝ、生活状態を見、心理状態を観察しやうといふのだ。なんだか私は侮辱をさへ感ずる。しかしいくらものずきでもよく訪ねてくれたと感謝する。 今回は「研究」ということにスポットを当てる。幸恵が金田一に対して非常に敬愛の念を抱いていたことは、この日記をみる限りほぼ間違いがないだろう。そして金田一も幸恵をたいへんかわいがり、いろいろ気を使っていることもうかがえる。 ここで「研究」そのものが持つ学術対象への差別的な視線について考える。 幸恵の弟の真志保が北海道を論文執筆のために調査していたときのことである。たまたま事故死したアイヌの老女の葬儀に行きあった真志保は参列

    知里幸恵日記を読む 2 大正11年7月18日 - 我が九条
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    comzoo 2009/08/03
    “「他人の心を傷つけつゝする学問は無価値である。それは悪魔の学問に他ならぬ。”
  • 「知里幸恵日記」を読む 1 大正11年7月18日 - 我が九条

    『アイヌ神謡集』出版のために金田一京助のもとに逗留することになった知里幸恵。彼女が残した日記の中から、いくつか採り出して論じてみたい。まずはアイヌに対する和人の「視線」。金田一京助邸に出入りする人々は決してアイヌに対する蔑視意識を持ってはいない。しかしその「視線」はしばしば「好奇」に基づくものであり、主観的にはアイヌへの共感に満ちていても、アイヌからみれば十二分に差別的であると考えられるものは当然にある。幸恵の弟の知里真志保は上京して東京帝国大学に入っているが、真志保への視線は一種の美談ととらえるものである。真志保が下宿した中島資朋中将も真志保を下宿させるのは一種の美談として捉えていただろうが、真志保にとっては決して美談では済まされない出来事があった。中島中将の知人の外交官の娘が民族学に興味を持っていて、アイヌのことを聞かせてほしい、と中島家にやってきた、という。真志保は「これは学問的興味

    「知里幸恵日記」を読む 1 大正11年7月18日 - 我が九条
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    comzoo 2009/08/02
  • 知里高吉について - 我が九条

    私は電波系の人には左右関わらず関わりたくないので、どこぞの電波な人が「オレは吉田松陰を暗殺した忍者の末裔だ」と言おうが、「中国共産党はチベットやウィグルを豊かにしてやったんだ」と言おうが、別にかまわないのだが、知里真志保を「白老コタンの酋長の次男で」というのは、いささか看過しえない過ちである(笑)。知里高吉は登別の出身なのは、いささかでも知里幸恵に関心があれば誰でも知っている話である。高吉の父、つまり幸恵や真志保の祖父はチリパ・ハエプトという。その母をチヨマップといい、チリバ・ハエプトはチヨマップの私生児である。金田一は親交のあった高吉について「南部藩の侍の血をひくチリパ翁の子で、知里姓を名乗る」と書いている。チリパ・ハエプトの父があるいは「南部藩の侍」か。蝦夷地勤番制の中で、室蘭や白老に南部藩は陣屋を設置し、藩士を駐屯させていた。 高吉自身は少年時代に登別温泉の滝金蔵のもとに奉公し、読

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    comzoo 2009/07/26
  • 「知里幸恵日記」を読む・序 - 我が九条

    中途半端にやりはじめて中途半端に終わる恒例の連続もの。今回はどこまで続くか分からないが「知里幸恵日記」を読んでみる。 「知里幸恵日記」は知里幸恵が東京に来てからの日々が描かれている。東京に来たアイヌの少女がどのような思いで東京での日々を過ごしたのか、を考えたい。幸恵が東京に来たのはいうまでもなく金田一京助に誘われたからである。このあたりの考察はすでに多くの先行研究が存在する。 特に金田一と知里姉弟の問題に関しては、知里真志保による師匠の金田一批判があり、それに乗っかる形でのいささか人格攻撃的な、感情的な批判がなされている。しかし知里真志保の金田一批判は、両者、特に知里真志保の金田一への個人的な複雑な思いと無縁ではなく、この師弟の感情のもつれにそれこそ乗じる形での議論は、極めて不毛である、としかいいようがない。 現在の研究水準では、金田一の問題点として挙げられるのが、金田一のアイヌへの関心が

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    comzoo 2009/07/26
  • 「鎌倉幕府」を「幕府」たらしめる「差分」について - 我が九条

    『日史研究』563号(2009年7月号、つまり最新号)に掲載された高橋昌明氏の「六波羅幕府という提起は不当か−上横手雅敬氏の拙著評に応える−」という論考は、ある意味「鎌倉幕府を鎌倉幕府たらしめている差分は何か」に関わる論争である。 高橋昌明氏はその著『平清盛 福原の夢』(講談社撰書メチエ 2007年)において平清盛の政権を「六波羅幕府」と呼べるのではないかと提起した。それに対する上横手政敬氏の書評(『日史研究』556号、2008年12月号)において高橋氏の「六波羅幕府」という提起を批判した。上横手氏は鎌倉幕府の基準からすれば平家政権は「幕府」と呼ぶには値しない、ということである。 上横手氏は 六波羅が幕府であることを証明する場合、六波羅の中に鎌倉幕府と共通するものと探すのは当然である。それに対して著者(高橋氏)は、逆に鎌倉幕府の中に六波羅と通じるものを求める。形式論理からいえば、明らか

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    comzoo 2009/07/20
  • 違星北斗は同化を強く指向したか - 我が九条

    Mukkeさん(「」)経由。 あー,このひと,アイヌコミュでも大活躍してるなー。「アイヌとして,日人への同化を強く志向した違星北斗さんという素晴らしい方」(原文ママ)という表現を見た時には殺そうかと思ったよ。 多分「このひと」が依拠したのは違星北斗の次の文だろう。 吾人は自覚して同化することが理想であって模倣することが目的ではない。 あるいはこれか。 「日臣民として生きたい願望」であるのだ。 この文は違星北斗が創刊した雑誌『コタン』創刊号の中の違星北斗の「アイヌの姿」という論説の一部である。しかしこれはまさに「都合のいい所を切り出した」だけのものであるのは、「アイヌの姿」の文章を読むだけでも「このひと」の言う「アイヌとして、日人への同化を強く志向した違星北斗さんという素晴らしい方」というのが全くの嘘であることが分かる。 私は小学生時代同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身せまい学生

    違星北斗は同化を強く指向したか - 我が九条
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    comzoo 2009/07/14
  • 中学受験教材で偏向記述3 - 我が九条

    栄光ゼミナールだけでなく、あちこちの学習塾で使われている小学5年生の社会科教材で、室町幕府を「不安定」と記述するなど、階級闘争史観に偏ったものが使われていることが分かった。塾の教材は教科書検定のようなチェックなしに使われており、室町幕府の関係者は「子供が初めて学ぶ日史が、室町幕府の守護の地域性・独立性を強調する30年以上前の教科書の内容で、それを丸暗記させられている」と警鐘を鳴らしている。 あちこちの学習塾は、大都市圏を中心に数えきれないほどの拠点で小中高校生向け教室を展開する。室町幕府の政所によると、中学受験指導コースで使われている「私国立中受験新演習小学5年社会下」で、「義満の死後は、守護大名の力が強くなり、将軍をくじびきで選んだり、守護大名によって将軍が暗殺される事件が起こるなど、幕府の政治は不安定なものでした」との記述がある。 どこかの塾では、どこかの中学で出たことがあるというこ

    中学受験教材で偏向記述3 - 我が九条
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    comzoo 2009/07/13
    恐るべき偏向教育の実態:忠君愛国の将楠木正成公を「ウンコで敵をやっつけた人」と愚弄
  • 南北朝正閏問題 - 我が九条

    1911年1月19日、読売新聞は「南北朝対立問題−国定教科書の失態」と題した社説を掲載した。 もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや 日帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず これは当時の文部省の国定教科書『尋常小学日歴史』において南北両朝を併存するものとして記述されてきたことに対する非難のキャンペーンである。当時学術的には南北両朝が併存している、という認識は当然のことであった。教科書は学術的成果に依拠して「南北朝」と表記したのである。この社説に反応したのは漢学者で早稲田大学講師の松平康国と牧野

    南北朝正閏問題 - 我が九条
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    comzoo 2009/07/12
    「千早城の攻防での幕府軍側の数が百万というのはいくら何でも多すぎると思います」と書いてどの方面から反応があるかテスト。
  • 中学受験教材で偏向記述 - 我が九条

    あちらこちらの塾の教材で故右大将殿(名:源頼朝公)による鎌倉殿の政権樹立を「幕府=征夷大将軍を中心とする政府」と記述するなど、「将軍の居所=幕府」という中華思想に配慮した媚中史観に偏ったものが使われていることが分かった。塾の教材は教科書検定のようなチェックなしに使われており、識者は「子どもが初めて学ぶ日史が、中華思想を強調する10年以上前の教科書の内容で、それを丸暗記させられている」と警鐘を鳴らしている。あちらこちらの塾で使われている『私国立中学受験新演習小学5年社会下』で、故右大将殿が構築した鎌倉殿の政権を「1192年、源頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を開きました」との記述がある。 「1192年」や「征夷大将軍」について、吉田経長氏は「鎌倉幕府の開設の年次や何を以て鎌倉幕府の開設とみなすか、についてはさまざまな学説があり、教科書なら検定意見の対象となる」と指摘。「中学

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    comzoo 2009/07/08
  • 笑った - 我が九条

    まずはイザ!のこの記事(「http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/275246/」)。 大手学習塾の栄光ゼミナール(部・東京都渋谷区)の小学5年生の社会科教材で、昭和12年の南京事件を「市民十数万人を虐殺(南京大虐殺)」と記述するなど、自虐史観に偏ったものが使われていることが分かった。塾の教材は教科書検定のようなチェックなしに使われており、識者らは「子供が初めて学ぶ日史が、日を悪と強調する10年以上前の教科書の内容で、それを丸暗記させられている」と警鐘を鳴らしている。 栄光ゼミナールは、首都圏を中心に318拠点で小中高校生向け教室を展開する。同社広報室によると、中学受験指導コースで使われている「私国立中受験新演習小学5年社会下」で、「1937年12月、首都南京を占領した日軍は、市民十数万人を虐殺(南京大虐殺)し

    笑った - 我が九条
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    comzoo 2009/07/08
    『社会科教師は例外無くサヨク』『歴史の成績がいい奴は全員サヨク』『近代史好きは一人残らず皆サヨク』
  • 九条道家は捏造だ(笑) - 我が九条

    今回プロフィール画像に九条道家公の画像を使わせていただいた。『天子摂関御影』の道家像である。ということで九条道家ネタ。 九条道家という人物は実在しない(笑)。藤原道家ならば実在する。 「九条家」という言い方は後世の我々が便宜上付けている名称である。同様に「足利尊氏」も存在しない。当時の文書をみればもれなく「源尊氏」である。北条時宗もいない。「平時宗」である。当時使われていなかったから、という理由である歴史学における用語を否定するならば、「足利尊氏」も「北条時政」も「執権」も否定されなければならない。もちろん「鎌倉幕府」も「室町幕府」も、である。 話はもどって藤原兼実及びその子孫を「九条家」あるいは「九条流」と呼ぶのは、邸宅が「九条殿」であったことに由来する。「九条家」というのを家名という。近衛・九条・二条・一条・鷹司という家名、金沢・赤橋・常葉・大佛という北条氏の家名、いずれも各家の邸の

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    comzoo 2009/07/02
  • 九条頼経はかなり微妙だ(マジ) - 我が九条

    鎌倉幕府4代将軍は藤原頼経である。しばしば彼は九条頼経とも表記される。目くじらを立てるつもりはないが、これは実際はかなり微妙ではある。微妙だからこそ「九条頼経」よりも「藤原頼経」の方が主流なのだろう。 なぜ「藤原頼経」はしばしば「九条頼経」と表記されるのか。それは彼が九条道家の子だからである。九条道家の子が九条頼経、非常に分かりやすい。しかし微妙なのだ。 結局「九条」というのは「家名」であって、「九条殿」を第としているから九条家なのである。藤原頼経は九条殿を第としていない。だから「九条頼経」は微妙なのだ。九条道家の孫で九条殿を継承したのは忠家である。道家から忠家とその間にはさまる教実が「九条」と呼ばれるのは当然である。道家から一条殿を継承した実経は九条実経とは呼ばれず、一条実経と呼ばれる。二条殿を第とした良実は二条良実と呼ばれる。ちなみにいずれも後世の歴史学研究のための便宜である。

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    comzoo 2009/07/02
  • 隠蔽することと触れないこと−文永の役と吉田経長の幕府批判− - 我が九条

    鎌倉時代における「虐殺」といえば、壱岐・対馬の虐殺であろう。元・高麗連合軍が対馬・壱岐の守備部隊を殲滅して博多に来襲した「文永の役」「弘安の役」のなかで起こった、と想定されている事件である。実際はそれを裏付ける客観的な史料は存在しない。しばしば引用されるのは「高祖遺文禄」として『伏敵篇』に収載されている史料だが、これは日蓮が佐渡で見聞したことを信者に書き記した書状で、しかもそれは「此国ノ者ハ、一人モナク三逆罪ノ者也、是ハ梵王帝釈日月四天ノ、彼蒙古国ノ大王ノ身ニ入セ給テ責給也」ということを説明するために日蓮が書いたものである。日蓮は「此国ノ者ハ、一人モナク三逆罪ノ者」であるがゆえに「梵王帝釈日月四天ノ、彼蒙古国ノ大王ノ身ニ入セ給テ責給」という認識を持っている。その因果応報が「百姓等ハ男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」という、有名な記述なのであ

    隠蔽することと触れないこと−文永の役と吉田経長の幕府批判− - 我が九条
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    comzoo 2009/06/25
  • 「元寇」は北条軍の侵略に対する自衛戦争(笑) - 我が九条

    もちろんネタ。まじでこれを主張する人がいたらまじで心配(笑)。陰謀脳全開、電波ゆんゆん、反日工作員、何とでもレッテル貼り放題。というかボーガスネタか。 「元寇」というのはもちろん元・高麗連合軍が九州地方に襲来したいわゆる「文永の役」「弘安の役」を中心とする「モンゴル戦争」と現在呼称されている歴史上の事件。元軍が日の領土にやってきて、対馬や壱岐で守備軍を全滅させ、おそらく民間人も多く巻き込まれ、博多が炎上した「文永異国合戦」、博多湾に「元寇防塁」と後世呼称される要塞を構築して元・高麗連合軍を防ぎ、台風によって被害を受けた元・高麗連合軍を追撃して退却せしめた「弘安異国合戦」。何となく「神風」のイメージが強いが、文永異国合戦においては神風の実在が疑問視され、弘安異国合戦でも台風で大きな被害を受けたが、その後の追撃戦も注目される。まぎれもなく日に襲来した元・高麗連合軍が攻撃してきたのであり、明

    「元寇」は北条軍の侵略に対する自衛戦争(笑) - 我が九条
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    comzoo 2009/06/15
    これに「源義経=チンギス・ハン」説を添加したい
  • 「とりあえず『鎌倉幕府はなかった』と『いいくに作ろう』はないよね」(笑) - 我が九条

    「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」の原型である1192年説の現状について。とりあえず大学における歴史知識の前提となるのが『詳説日史』及び『詳説日史研究』(いずれも山川出版)。「頼朝が将軍に就任(在位1192〜1199)し、ここに鎌倉幕府は名実ともに成立するにいたった」と書かれている。1192年に関しては一つの指標としては評価されうるものの、源頼朝の作った「幕府」の内実には大きな影響がないことを以て、現在ではあまり顧みられなくなった説である。小林よしのり氏は『サピオ』連載の「天皇論」で1192年説が顧みられなくなったのは、天皇の影響を過小評価したい反天皇制サヨクの影響を指摘しているが、それはあたらない。小林氏がやり玉に上げた「いいはこつくろう」の1185年説も、あくまでも守護・地頭設置を朝廷から認められた「文治の勅許」のことであるから、朝廷からの許可は前提である。守護・地頭の設置が

    「とりあえず『鎌倉幕府はなかった』と『いいくに作ろう』はないよね」(笑) - 我が九条
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    comzoo 2009/06/14
    勉強になります。