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ブックマーク / wallerstein.hatenadiary.org (71)

  • 干鮭(カラサケ)の論文を書くことに決めた - 我が九条

    今書いている科研費報告書の論文で近衛政家の日記を見直す必要があってブログに久しぶりにアクセスしたら、次のようなコメントがunko氏によって付されていた。 疋は貨幣単位。例えば鎌倉時代だと1疋が30文。干鮭のことを「カラサケ」などとは言わない。そもそも「干」に「から」などという読みはない。ここは「唐の酒」と読むのが自然。無知を自分の思い込みでカバーしても正しい答えは出ないぞ。 この短い文章にこれだけのツッコミどころを詰め込むのも何かの才能であろうが、このような議論まがいがネット上にあふれているのも事実であって、ネット時代における知性の崩壊状況を如実に示す好例であるのでここで取り上げることとした。 漢和辞典を引けば「疋」と「匹」は互換性があることがわかる。「疋」の用例は貨幣単位だけでないことも分かる。つまりunko氏は漢和辞典を引くことに思いが至らなかったのである。 干鮭の訓みが「カラサケ」で

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    comzoo 2016/12/04
  • 近衛政家はワインを飲んだのか - 我が九条

    キリンのサイトには 古くは1483(文明15)年の『後法興院記』に、関白近衛家の人間が「チンタ」を飲んだという記述がある。このチンタが赤葡萄酒のことといわれている。 という記述がある。ワインと日人|酒・飲料の歴史|キリン歴史ミュージアム|キリン 手元にある『後法興院記』文明15年をいくら読み返しても「チンタ」など出てこない。「チンタ」はポルトガル語由来らしいが、文明15年、1483年にポルトガル語が日に伝来している可能性はほぼないだろう。 サントリーも同様の内容を載せている。 この時代に書かれた公家日記「後法興院記」に、「珍蛇(チンタ)」というお酒を飲んだという記述があります。 この「珍蛇」は、スペインやポルトガルから伝わった赤ワインを指すと考えられています 日ワインの歴史|日ワイン サントリー 次にこんな記述が酒店のサイトにある。 かなり確かなのは文明15年(1483年)の『後法

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    comzoo 2016/12/04
  • 中世の北海道史と一次史料 - 我が九条

    歴史学においては一次史料を中心に書くのが基である。 とは言っても一次史料がほとんどない分野が存在する。中世の北海道史はその典型例だろう。いきおい編纂物である『新羅之記録』に頼ることになる。しかし残念ながら『新羅之記録』の信憑性は非常によくない、と近年の研究では指摘されている。しかし『新羅之記録』は一種の麻薬みたいなもので、使い出すと止まらないのだろうな、と思っている。その典型例として私はこの五年ほどやり玉に挙げているのが「下国安藤氏十三湊還住説」である。 『満済准后日記』に永享四年に下国安藤氏が没落した、と書いてあり、『新羅之記録』には嘉吉二年に没落した、と書いてある。この両者は年代以外はそれほど齟齬がない。双方とも基的な出来事は南部氏と下国安藤氏が争って、下国安藤氏が敗北し、北海道に逃亡した、ということである。これだけを見れば、一次史料である『満済准后日記』と編纂物である『新羅之記録

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  • 本当に北方史の史料? - 我が九条

    室町時代の津軽道南地域に関わる史料は少ない。以下に掲げる史料は、数少ない室町時代の津軽地域に関する史料とされている史料である。 政所内評定記録(『室町幕府引付史料集成』) 寛正四年 四月十五日、内談 (中略) 一 武田被官与一色左京兆被官相論舟荷物事 於舟者盗物沽却云々。召上彼訴論人可被遂対決。至荷物者、彼船頭負物在之間押取云々。所詮、舟之荷船頭之計哉否、自余之津湊例相尋之、可依左右。 ー清泉 合ー治河 四月廿六日、内談 (中略) 一 武田○〈被官〉与一色左京兆被官若州小浜住人等売買船相論事 売主有現在者、不日被召上、可有糺決云々。 奉ー清泉 合ー治河 六月二十六日、内談 (中略) 一 武田被官与一色左京兆被官申舟荷物事 十三丸〈大船、〉事者、重格別之上者、於小浜立請人、先被返渡、相論枝舟事者、仰豊前守護、可被召上売主。 ー清泉 合ー治河 寛正四年に室町幕府政所に提訴された訴訟の記録

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  • これはひどいウィキペディア「室町時代」 - 我が九条

    今回取り上げるのは「室町時代」の項目。今回は琉球との関係を取り上げたい。問題の箇所はここ。 1414年には将軍足利義持が琉球王の献上物に対する返礼の書状を贈っており、1441年には足利義教が琉球を薩摩国の島津氏の属国とする事を認めており、さらに幕府には琉球奉行が設置されて貿易の統制を行おうとしており、室町時代には琉球が「日」として認識されていた。 2004年8月にアップデートされたもの。「室町時代には琉球が「日」として認識」という記述は、私は同意しないが、そういう学説もあるのでさておく。というよりもその方が通説だろう。問題は足利義教の嘉吉附庸説を事実と解釈しているところ。それならば源為朝の琉球伝説も史実として書いて欲しいw 琉球奉行の設置と貿易の統制も「琉球が「日」として認識されていた」こととどう関係あるのか、不明。室町幕府における「奉行」の意味合いをもう少し考えた方がいい。あと『蔭

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  • 「王女の男」をアジア史のパースペクティブに位置づけてみる - 我が九条

    今みたい韓流ドラマ「王女の男」(多分見ない)。その舞台は「癸酉靖難」。1453年に朝鮮王朝で起きた王位簒奪事件である。 朝鮮王朝の最盛期を作り上げた世宗大王を継承したのが文宗だが、彼は病弱だった。彼が36歳で死去すると、王位は世嗣で11歳の弘暐が継承したが、文宗の弟の首陽大君が簒奪したのが「癸酉靖難」である。物語自体は文宗の重臣の金瑞宗(キム・ジョンソ)の子の金承琉(キム・スンユ)と、首陽大君の娘の李世伶(イ・セリョン)のラブストーリーを中心とした話なのだが、そこに申叔舟(シン・スクチュ)の子のシン・ミョンが金承琉の親友として登場する。 で、申叔舟だが、彼が書状官として来日したのが1443年のことである。申叔舟が来日したときの通信使の役割は、嘉吉の乱で落命した足利義教の致祭と、新将軍となった足利義勝の慶賀の使者である。しかし義勝は通信使と会見した一ヶ月後に死去し、弟の足利義政が襲位すること

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    comzoo 2012/06/25
  • 鎌倉幕府否定論再論 - 我が九条

    鎌倉幕府の成立年代には大きく分けて7つある。数少ないこのブログの読者ならば何回か読んでいらっしゃると思うし、新たな読者がいるともあまり思えないが、再び。 鎌倉幕府の成立については一一八〇年、一一八三年、一一八四年、一一八五年、一一八九年、一一九〇年、一一九二年の諸説がある。これは例えば学問研究が進んで、新たな史料が発見されればどれか一つに収斂されるのか、と言えば、それはない。何故かといえば、鎌倉幕府の開設年代のズレは、「鎌倉幕府とは何か」という問いに対する解答が異なるからだ。 一一八〇年説を支える史実は「源頼朝が鎌倉に邸宅を構えた」ということである。頼朝の邸宅は単に頼朝が居住するだけではない。頼朝に従う「侍」を管理する機能も持っている。「侍所」というのはある程度の権門勢家ならば備えている機構であって、侍所を備えた邸宅を構える事は、頼朝が鎌倉を中心とする南関東を実力で支配しようとする意思を明

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    comzoo 2012/02/27
  • 中世における天皇家の分裂 - 我が九条

    天皇制が順風満帆に進んできたわけではないのは、歴史を見れば一目瞭然だ。古代の天皇制は非常に不安定であった。その点平安時代中期以降は天皇制は安定する。幼児が天皇に即位しても、システム自体は何の問題もなく動くのだ。これこそレジームとしての天皇制は強固であることの証左である。 中世においては危機が三度あった。 一度目の危機は治承・寿永の内乱である。安徳天皇在位のころ、木曽義仲の攻撃に備えて平氏は西国に落ち延びることを決意、天皇と治天の君を擁立して西国に落ち延びる、つもりであった。しかし治天の君の後白河が平氏の手を離れてしまったことから、思い掛けない天皇制の危機を迎えることになる。 後白河は安徳から異母弟の後鳥羽に皇位を移す宣言をする。三種の神器は安徳の手元にある。しかし治天の君の意向が三種の神器に優先するのだ。しかし平氏がそれを認めるわけもない。ここに安徳と後鳥羽という二人の天皇が並立する時代を

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    comzoo 2011/06/23
  • 中世における天皇制の危機 - 我が九条

    中世における天皇制の危機として第一にあげられるのは承久の乱である。 朝廷の追討官宣旨を出した相手が京都にせめこんできて朝廷の軍が壊滅する、ということは、なかったことになっていた。しかし鎌倉幕府の大軍は容赦なく京都を蹂躙し、天皇の権威をたたき壊した。 天皇は廃位され、九条道家に預けられることとなった。幼児だったから責任を問われなかったのであろう。責任を問われたのは成人に達していた皇族であった。治天の後鳥羽上皇は隠岐へ、後鳥羽とともに討幕に積極的だった順徳は佐渡へそれぞれ流罪となった。父の後鳥羽と疎遠になったため、討幕に参加していなかった土御門上皇は自らの意思で土佐に移動することとなった。他にも幕府の将軍に予定されていた後鳥羽の皇子も但馬などに流罪となった。 鎌倉幕府を主導する北条義時は、この処分を自身で決定しながらも、天皇を廃止しようとも、自らが天皇になろうともしなかった。義時は後鳥羽の兄で

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    comzoo 2011/06/23
  • 中島久万吉商工相辞任事件−北朝抹殺のその後− - 我が九条

    中島久万吉は斎藤実内閣の商工大臣。斎藤実内閣は犬養毅内閣が5・15事件で首班暗殺という事態を受けて組閣された内閣。犬養毅暗殺後は同じ政党の党首が就任する慣例に従って元老西園寺公望は当初は立憲政友会総裁の鈴木喜三郎を首班にしようとしたが、政党政治の継続は当時の政治情勢を考えると、再び軍部によるテロを惹起する危険があった。軍部は検察出身の法務官僚平沼騏一郎を推薦する。しかし西園寺と昭和天皇は平沼のファッショ傾向を嫌い、リベラルで軍部にも抑えの効く人物として、前朝鮮総督で元海軍大臣、海軍予備役大将の斎藤実を首班に指名する。 斎藤実は一旦は国際連盟脱退と満州国承認など、軍部の意向に沿いながら、国際連盟復帰を目指そうとする。その動きに対して様々な政局が仕掛けられた。その一つが中島久万吉がかつて足利尊氏を評価した随筆攻撃である。十三年前の同人誌に掲載された随筆を、講談社の雑誌「現代」が中島に無断で転載

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    comzoo 2011/06/12
  • 北朝の天皇が抹殺されるまで - 我が九条

    明治政府はそのイデオロギー主柱が水戸学であったことが、北朝ではなく、南朝が正統であると考えられた根にあると思われる。江戸幕府の歴史意識では、後醍醐で王朝は終了して武家の世になっているのである。王朝交代の思想に基づけば、南朝正統の方が何かと好都合であった。松平定信の大政委任論から始まって、幕末の政治情勢の中で攘夷を決行できない「征夷大将軍」に対する不満が高まり、「尊王攘夷」から「尊王討幕」へと政治動向が変わり、明治維新に至る。明治維新では水戸学の影響やら、国学、特に大国学(おおくにがく=大国隆正の学派であって、「だいこくがく」ではない。念のため)を中心とする国学がヘゲモニーを一時的に握る。いわゆる祭政一致の段階で、神祇官が太政官の上に置かれた時代である。神武の昔にもどろうとしたらしい。やがて文明開化の中で彼等は非主流派に転落して行くのだが、彼等の思想は民間右翼団体やその影響を受けた地方の保

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  • 天皇の代数 - 我が九条

    天皇の代数は難しい。125代目と言えば簡単だが、昔からいろいろな数え方が存在する。 南北朝時代には神功皇后を歴代に数えていた。逆に弘文天皇と淳仁天皇と仲恭天皇は歴代に数えない。従って後醍醐天皇は何代目か、と言えば、現代では96代目となるだろうが、南北朝時代には94代目である。 肝心の南北朝時代の天皇だが、現代の、特に自分が発起人を務める教科書を決算委員会の場で採択するように圧力をかける政治家は次の様にしか考えないだろう。 後醍醐−後村上−長慶−後亀山 しかし当たり前だが、今上天皇は後亀山の子孫ではない。室町時代には自分が擁立する天皇の先祖を持ち上げ、自分が擁立する天皇に反逆し、天皇を僭称した不届き者は天皇とは扱わなかった。室町時代の天皇の代数は次のように意識されていた。 後醍醐−光厳−後醍醐(重祚)−光明−崇光−後光厳−後円融−後小松−称光−後花園 ちなみに今上天皇は崇光−栄仁親王−貞成親

    天皇の代数 - 我が九条
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    comzoo 2011/06/09
    JRの線路と名神高速と住宅地に取り囲まれ、狭く騒々しいところに十二柱も一緒に押し込められて、いとあはれにおもはるる「深草十二帝陵」の大改修を是非に。
  • ■ - 我が九条

    偶然見つけた(ADHD(注意欠如・多動症)情報サイト)。 学校の勉強などで、細かいところまで注意を払わなかったり、不注意な間違いをしたりする →単純な計算ミス、ケアレスミス、文章を書くときに先のことを考えていて字が抜ける、“点”や“はね”など細かいところまで注意を払わない、問題文を最後まで読まない、など。 課題や遊びの活動で注意を集中し続けることが難しい →途中で注意がそれて投げ出したり、ゲームなどの自分の順番を忘れてしまったりする。 好きなこと、興味のあることなどには集中しすぎてしまい、切り替えが難しい →話しかけても気づかない、中断するのが難しい、など。 面と向かって話しかけられているのに聞いていないように見える →自分の好きなことを考えていることが多いためボーっとしているように見える、相手への注意を払わない、他の方向を見る、他の内容の話をする、など。 課題や活動を順序だてて行うことが

    ■ - 我が九条
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    comzoo 2011/05/18
  • 中世同性愛事情 - 我が九条

    石原慎太郎東京都知事の発言「(同性愛者は)どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょ。マイノリティーで気の毒ですよ」 藤原頼長も足利義持も大乗院尋尊も「どこかやっぱり足りない」「マイノリティーで気の毒」な人々らしい。それを言い出せば、前近代の日の支配層はすべて「どこかやっぱり足りない」「マイノリティーで気の毒」な人々だろう。まあ当時の支配者はみな天皇家を中心に血統関係はかなり近かったから、「遺伝とかのせい」かも知れないが(笑) 日の伝統や歴史について「どこかやっぱり足りない」人なのだろうな。 追記 そういえばこの前テレビをみていたら、マツコデラックスと石原良純が共演していた。良純さんも大変だな。放言癖のある父親をもつ芸能人は。

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    comzoo 2011/01/20
  • これはひどいウィキペディア「元寇」編 - 我が九条

    ウィキペディアは非常に便利な反面、稀に嘘が紛れ込んでいる。何も知らない人が、自分を物知りと勘違いして自分の思いこみを書き込むからである。近衛基平のところでは岩波書店の社長の安江良介氏を『深心院関白記』の解説執筆者と勘違いするほど業界関係に無知な人(喩えれば阪神タイガースの四番を坂井オーナーと勘違いしているレベル)が恥ずかしげもなく書き込んでいるわけで、今回のもかなりひどいレベル。 関係部分を引用。 1271年9月、三別抄からの使者が来着した直後に、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えて5度目の使節としてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「蒙古の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事にな

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    comzoo 2010/08/31
    「Wikipediaに書いてある間違い箇所を正しく指摘できる人」がその項目についての「詳しい人」だと常に言っているが首をかしげられる事が多い。「Wikipedia」を「情報誌」に置き換えても同じだろうに…と思うのだが。
  • 源実朝の暗殺 - 我が九条

    1219(建保7、この年4月に承久に改元)年、右大臣拝賀の式に臨んだ鎌倉幕府三代目将軍源実朝は、参拝を終えて石段を降りたところで甥(二代目将軍源頼家の子)の公暁に暗殺された。その時に太刀持ちをしていた大学頭・文章博士の源仲章も殺された。仲章の役目は来執権の北条義時が務めるはずであった。実朝の首を持った公暁は乳母夫の三浦義村の下に向かうが、義村は義時に知らせ、公暁を討ち取る。 実朝がなぜ暗殺されなければならないのかについては、その暗殺の黒幕を含めて議論が存在する。 北条義時黒幕説、三浦義村黒幕説、公暁単独犯説、後鳥羽上皇黒幕説である。 従来有力視されてきたのは北条義時説である。義時は儀式の直前に体調を崩して式を抜け出している。陰謀を知っていたからこそ抜け出したのだろうと考えられていた。それに対し、義時が務めるはずであった太刀持ちを務めていた源仲章が殺されているところと、公暁が三浦義村の下に

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    comzoo 2010/07/04
  • 「幕府」の「差分」−源頼朝 - 我が九条

    平清盛の樹立した政権を「六波羅幕府」あるいは「福原幕府」と呼ぶべき、という見解は実はなかなかハードルが高い。なぜならば、そもそも「幕府」という概念は、源頼朝にあって平清盛にないものを表象するために作られた概念だからである。 鎌倉幕府成立年代論争とは、鎌倉幕府とは何か、という問題である。一応述べておく。 1180年、頼朝が鎌倉に邸を構えた。これは鎌倉幕府が南関東の軍事政権であることに着目する見解。 1183年、頼朝が寿永2年の宣旨を受けた。これは鎌倉幕府は、その実力支配を朝廷から公認されることに着目する見解。 1184年、頼朝は公文所と問注所を設置した。これは鎌倉幕府が行政機関として機能し始めたことに着目する見解。 1185年、頼朝が守護・地頭設置を認められた。これは頼朝の主従制が朝廷に公認されたことに着目する見解。 1189年、頼朝が奥州征伐を行なう。これは頼朝が全国的な軍事動員権を掌握し

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    comzoo 2010/07/01
  • 保元・平治の乱 - 我が九条

    軍事貴族のプレゼンスが向上するのは、この二つの戦乱である。これを通じて軍事貴族は中央政界における存在感を強めて行く。 藤原忠実の娘の泰子の入内をめぐって白河法皇と鳥羽天皇の関係が疎遠となる。一旦は白河主導で泰子を鳥羽天皇のもとに入内させようとしたが、忠実が断る。にも関わらず、数年後、白河が熊野詣で不在の間に鳥羽天皇主導で泰子入内が計られ、面子を潰された白河は忠実を追放する。これによって摂関が院に従属する存在となったのだが、同時に白河は鳥羽に不信感を抱き、鳥羽は白河に不満をつのらせることになった。 白河は当時19歳の鳥羽天皇を退位させ、自分が認めた顕仁親王を即位させる。崇徳天皇である。鳥羽天皇は白河と崇徳を憎み、『古事談』によれば「叔父御」と崇徳のことを呼んだと言われる。 1129(大治4)年、白河は77歳で死去する。その後、天皇の直系尊属として朝廷の主導権を掌握したのは鳥羽上皇である。11

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    comzoo 2010/06/27
  • 院政のはじまりー白河院ー - 我が九条

    院政を始めたのは白河上皇である。白河上皇は子どもに譲位した後、自由な立場から院政を行った。 これがよくなされる説明である。しかし実際にはそれほど単純に院政が成立したわけではない。白河天皇が自分の皇子善仁(たるひと)親王に譲位したその背景には、白河天皇の妄執があった。 発端は後三条天皇親政に遡る。後三条天皇は藤原摂関家を外戚としない天皇であることは、有名である。後三条が実際に院政を行おうとしたか否かについては、議論の分かれるところであるが、後三条の皇位継承計画によれば、とりあえず白河天皇を即位させ、時期が来れば皇族を外戚とする実仁親王を即位させようと考えていたようだ。 白河天皇は自分が愛した賢子の血を引く善仁親王に皇位を継承させたいと考えた。そういう中で皇太弟の実仁親王が死去し、その機を捉えて善仁親王の即位を強行した。堀河天皇である。ここに院政が成立した、と言われる。 しかし白河上皇自身、院

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    comzoo 2010/06/27
  • 武士とは何か - 我が九条

    朝廷は長い間常備軍を持たなかった、と言われる。朝廷の常備軍に替わって朝廷という〈共同体ー間ー第三権力〉の強力機構として機能したのが武士団である。武士とはどうやって発生したのだろうか。地方の乱れに対応して大名田堵などの有力農民が武装して在地領主=武士となったのだろうか。実は違う。それでは単なる「武装した有力農民」である。「武装した農民」が身分としての「武士」になるには、それこそ弁証法的展開が必要となる。 「武装した農民」から「武士」への弁証法的展開の触媒となったのが軍事貴族である。かつて拙ブログで軍事貴族に触れたとき、「軍事貴族は貴族なのか」という疑問があった。そもそも「貴族」とは何か。 「貴族」とは端的にいえば官位を持つ人々である。事実上従六位以下は事実上機能していなかったので、六位以上が「貴族」となる。五位以上で清涼殿への昇殿を認められた人々が殿上人で、それ以下が地下人である。殿上人にな

    武士とは何か - 我が九条
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    comzoo 2010/06/26