ライプニッツは哲学、数学、科学など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学(物理学)、論理学等)を統一し、体系化しようとした。その業績は法典改革、モナド論、微積分法、微分記号、積分記号の考案、論理計算の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。 1646年、ライプニッツはライプツィヒ大学哲学教授のフリードリッヒ・ライプニッツの子としてライプツィヒに生まれた。父は6歳の時に病没した[7]。1653年にはライプツィヒのニコライ学院に入学した。1661年にはニコライ学院を卒業し、ライプツィヒ大学に入学し、数学や哲学を学んだ。1663年6月には、哲学の学士論文をライプツィヒ大学に提出し、4か月間イエナ大学へと移って数学や法学、史学を学んだ。10月にはライプツィヒ大学