近年公開されたワン・ビンの『無言歌』においては、中国の強制収容所が描かれ、毛沢東に裏切られた人々の壮絶な生が映し出されていた。もはやわれわれはかつてのように毛沢東に熱狂することはできないように思える。革命の理想として語られた「文化大革命」もまた、そうであろう。このような現在において、津村喬を読むことはどのような意味を持ちうるのか。もちろん、津村は「文化大革命」に熱狂したひとりであったが、しかしそこに硬直した毛沢東崇拝は見受けられない。 津村喬は「文化大革命」におけるある印象的な光景を書き付けている。 一時期には数千人の紅衛兵が夜毎にあつまって来て、毛沢東バッジ――わたしが持ち帰っただけで実に百種近い――の交換を媒介に、白昼の、あるいは書かれたもののレベルでの排他的な党派性をこえて、情報交換したのである。(「複製技術時代の思想」) ここに津村の方法の核心があるように思われる。つまり、毛沢東を