日本では、社会を思想的に把握しようとする人にありがちなこととして、歳を取るほど話のスケールが大きくなって、人類全体、人類史全体を対象にするような「大きな物語」を描こうとするというのがある。そのこと自体は、ヨーロッパ流の、「人類」全体を対象にするユマニスムの知的伝統と、アメリカ流の実証主義的プラグマティズムの間に置かれた日本のアカデミズムならではの現象なのだと思う。若いときは堅実に、実証的に取り扱いうる事象のみを研究しているのだけれど、そのうちにそうした事象の背後にある、なにか共通の糸みたいなものが見えてきて、よし、一生の仕事として、最後の難問に取り組んでみるか、と。そこで宣長に帰るか、普遍的人類(あるいはサルとの比較とか)を想定するかといった違いはあるけど、まあそういう人は多いわけだ。 それを揶揄するだけの知的能力は僕にはないし、そもそも僕の関心は分不相応に大きいので、こうした人々の仕事の
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