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ブックマーク / hituzinosanpo.hatenablog.com (8)

  • 勝手に 定義して、他者の民族性を かたることの問題。 - hituziのブログじゃがー

    坂口安吾(さかぐち・あんご)のエッセイに「日文化私観」というのがある。 伝統と生活と。ブルーノ・タウトは、日を 訪問し、日の あれやこれやが うつくしいと いった。その あれやこれやは、いわゆる伝統というやつだ。安吾は、生活が大事だと いった。 然しながら、タウトが日を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日の伝統を見失いながら、しかも現に日人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距(へだた)りがあった。即ち、タウトは日を発見しなければならなかったが、我々は日を発見するまでもなく、現に日人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日を見失う筈はない。日精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日が生れる筈もなく、又、日精神というものが説明づけられる筈もない。日人の生活が健康でありさえすれば、日

    勝手に 定義して、他者の民族性を かたることの問題。 - hituziのブログじゃがー
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    crowserpent 2015/11/26
    オリエンタリズムと同化主義(政策)の共通性・連続性について。
  • 学習権と教育権と。 - hituziのブログじゃがー

    わたしは、学校教育じゃなくて、学習支援で いいじゃんと主張することがある。いつでも、どこにいても、何才でも、だれもが学習できる。それが大事なんだと。 こどもを 学校に いかせるというのは、親にとっては託児所に こどもを あずけるという意味もある。親だって、こどもとばかり 顔を あわせていたくない。こどもだって、そうだろう。そういう意味で、学校という居場所には社会的な意味があるんだと感じる ひとも いるだろう。ただし、「学級」という空間の是非についていえば、わたしは完全に否定的だ。学級というシステムが人間を ダメにしている。くるしめている。わたしは そのように かんがえている。 学級という空間の だめっぷりを 批判し、介入していくうえで、学習支援という視点は重要な意味があると おもっている。 わたしは訪問語学講座を ほそぼそとやっている。あるときには ひとりの学習者に ふたりで訪問するという

    学習権と教育権と。 - hituziのブログじゃがー
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    crowserpent 2013/06/28
    「国家や社会多数派による教育寡占」への抵抗としての「個人の教育権」と、学習者の学習権を蔑ろにしうる「教育的欲望のパターナリズム」のジレンマ。難しいね。
  • 「みなし再入国」制度は詐欺の手口だ(追記しました)。 - hituziのブログじゃがー

    で生活している外国籍の人が日から出国するとき、「再入国許可」を とらないと、それまでの在留資格をうしなってしまうという問題があります。そして、その再入国許可というのは、お金をはらって、地元の地方入管(住居地を管轄する地方入国管理官署)で申請をとる必要があるという問題がありました(参考:法務省:再入国許可申請)。 2012年の改訂入管法で法務省は「みなし再入国」制度をはじめました。法務省は「便利になりました!」とアピールしていました。 法務省は、朝鮮籍の人は法務省が「有効」とみなすパスポートを もっていないといって、この みなし再入国制度を 利用させていません。この問題は、よく しられています。 今回 紹介するのは、みなし再入国制度の もうひとつの問題です。いまになって紹介するのは、わたしの不勉強によるものです。反省します。 金朋央(きむ・ぷんあん)「特別永住者にとっての新在留管理制度

    「みなし再入国」制度は詐欺の手口だ(追記しました)。 - hituziのブログじゃがー
    crowserpent
    crowserpent 2013/04/28
    え、なんでそんな無茶苦茶な制度運用してるの? 法務省何考えてるの?
  • 「障がい」表記について。 - hituziのブログじゃがー

    去年、たくさんの ひとたちと共同論文を かいた。まだ査読まちなので、論文として掲載されるかどうか きまっていない。なので、共同で原稿を かいたというのが正確。そのとき、障害の表記を「障がい」にしたいという意見が複数でた。それについて反対意見もでた。わたしは、どっちでも いいと おもったし、そのように発言したけれど、「なぜ「障がい」にするのか、納得のいく説明をしてほしい、そうでなければ「障害」で」ということを あとで つけくわえた。 「障がい」にするなら するとして、気になることがある。たとえば、わたしは この数年、「図書館利用に障害のある人々へのサービス」というものを 紹介しつづけている。これは、障害者に対するサービスに限定されるものではない。図書館の利用に なんらかの困難がある場合、それは、図書館側が もうけてしまっている障害であり、それを解消する責任が 図書館には あるという視点に た

    「障がい」表記について。 - hituziのブログじゃがー
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    crowserpent 2013/01/17
    「『障がい』という表記は、障害を個人的なこととしてとらえてしまう」 語の書き換えそのものが、そうした前提に基づいてるってことか。なるほどなー。
  • 「セクシュアルマイノリティ傾向」ですって? - hituziのブログじゃがー

    1ヶ月まえのことですが、障害学会第6回大会(障害学会・2009)に いきました。いろいろと かんがえることはあったのですが、ひとつ「ええー」と感じたことについて。 杉崎 敬「知的障害当事者の<生き様>から見える多様なセクシュアリティの形――知的障害と共に生きる<彼ら/彼女らなり>の<リアリティ>とは何か」 うえの報告原稿にも でてきますが、「セクシュアルマイノリティ傾向」という表現に とまどいました。おかしな表現だと感じました。引用します。 2.“男が好き、男性と女性をはき違えている”(Bさん:男性・60歳) セクシュアルマイノリティ傾向があるBさん。同じGH内に好意を抱くUさん(30代男性)と担当職員Iさん(30代男性)がいる。Bさんの自室には、Uさんの写真が数多く貼られており、その思いの強さがうかがえる。15歳から施設へ入所、その後35年間施設で育った。32歳の時に、友達(男性)との性

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  • 朝鮮人差別について。 - hituziのブログじゃがー

    三浦耕吉郎(みうら・こうきちろう)編『構造的差別のソシオグラフィ』世界思想社 「私たちがある種の関係性のなかにおかれると、個々人のなかの偏見や差別意識の有無とは無関係に、差別に荷担させられたり、差別を引き起こしてしまうことがある」(みうら「序章 〈構造的差別〉のソシオグラフィにむけて」3ページ) マイノリティについて - hituziのブログじゃがー マイノリティは、ただマイノリティなのではない。マジョリティ(多数派)との関係において、マイノリティであるのだ。 日国籍を 一方的に おしつけ、うばいとる。 さて、かんたんに歴史的事実から。在日コリアン弁護士協会 LAZAK編著『裁判の中の在日コリアン』現代人文社より。 1910年のいわゆる日韓併合によって、朝鮮は日の領土とされ、朝鮮人は一律に日国籍を取得しました。その後、日による朝鮮半島の植民地支配が行われていた間、日国籍を有し、日

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  • こぼれおちたのは、異性愛か。それとも同性愛か。 - hituziのブログじゃがー

    韓国に留学していたとき、感動してよんだ文章を紹介します。 ハン・チェユン 2003 「ある非異性愛者、異性愛を問う」『当代批評』夏号(22号)、352-365。 ハンさんは、1998年の2月に『バディ(Buddy)』という同性愛専門誌を創刊した。2004年の12月に24号を最後にして、もう刊行されていないという。だが、韓国性的少数者文化人権センターは まだ健在だ。また、ひきつづき同性愛専門出版社「ヘウル」を運営している。 きょうは、そんなハンさんの文章を紹介しながら、わたしも異性愛について、ちょっと かんがえてみたい。 異性愛者たちが「自分を定義すること」に没頭したりはしないというのは、よくしられた事実だ。そのため わたしたちは、とてもマジメに「異性愛の正確な意味はなんだろう?」と質問を なげかけても、かんたんに こたえを きくことはできない。(354ページ)。 よくある表現を かりれば、

    こぼれおちたのは、異性愛か。それとも同性愛か。 - hituziのブログじゃがー
    crowserpent
    crowserpent 2008/07/22
    「はなす側と きく側の位置が固定的であれば、それは対話ではない。」
  • 少数派には名前がある(ベジタリアンをめぐって)。 - hituziのブログじゃがー

    matsuiism(マツイイズム)さんの奇妙なベジタリアンたち - heuristic waysという記事について、ちょっと感じたことを かきます。 マツイイズムさんは鶴田静(つるた・しずか)さんの『ベジタリアンの世界-肉を超えた人々』を よまれたそうだ。 ベジタリアンの発想はしばしば奇妙に思えるし、時には滑稽にすら感じられる。また、人自身いろいろ試行錯誤を試みたり、失敗したりしているため、一貫性や持続性がないようにも思える。私自身は今のところベジタリアンになるつもりはまったくないが、ただ、面白いのは、ベジタリアンは「べてよいもの」と「べてはいけないもの」との区別を新たに設定し直すことによって、自分の生活とこの世界のあり方について、「自明性をカッコに入れる」現象学的還元を実践してしまうということ、そして肉の罪を自覚し、自分の欲望に「制限」や「限界」を設けることによって、謙虚になる

    少数派には名前がある(ベジタリアンをめぐって)。 - hituziのブログじゃがー
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