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ブックマーク / diary.lylyco.com (3)

  • ある種のネト充やオタクたちは決して「リア充」にはなれない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「リア充」という言葉、案外、廃れない。 どころか、じわじわとネト充圏外へと侵攻し始めている気配すらある。それだけインターネットが一般的になったということだろう。それにしても、リアルで充実とはややこしい概念だと思う。何しろ現実を真摯に見つめれば見つめるほど、大抵、充実からは遠ざかってしまう。現実とは来、身も蓋もないものだ。だから、充実の多くは夢や幻想や妄想に担保される。コンパやサークルの虚構性など今さらいうまでもない。そこにある人間関係も性関係も、所詮は個々人が抱く幻想同士の部分的な重なりにすぎない。解り合うことはおろか、認め合うことすらほとんどできはしない。 金持ちになることにも、異性にモテることにも、長生きすることにも、教祖になることにもさしたる意味はない。すべては等しく無意味である。一方で、巨乳を見れば揉みしだきたい衝動に駆られ、木陰で放尿する幼女の姿に興奮する。満たされぬ欲望はどこ

    cs133
    cs133 2009/04/16
    リア充に成りたいと思えるだけ正常だよ。オタクの中に居てもリア充意識してる人見てると疎外感を感じる。
  • 30代を発狂せずに愉しむための2つの心がけ|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    30歳を超えても、困ったことに、大抵の人は発狂しない。 それは、まだまだ人生から降りられないことを意味する。そこの10代も20代もみんな、残念ながら素面で30代を迎える。何者でもない自分をひしひしと感じ、当の自分なんてないことにも疾うに気づき、そもそも人の一生にさしたる意味なんてないんだと知って、それでも何となく正気で生きていく。そういうものだ。そもそも30代を恐れる若者たちは、そんなに充実した満足のいく10代や20代を送ってきたんだろうか。否。振り返ってみれば大したことのない人生だったはずである。30歳になって失くすような重大な幸福なんてひとつもない。ならば、これからを愉しく生きなきゃ損である。 ----- 01:飽きたことに固執しない 人間30歳にもなれば、20代までにやった大抵のことに飽きてくる。あれほどワクワクしたゲームたちが色褪せて見え、テレビを視るのも2ちゃんねるに書き込むの

  • 恵まれた精神の無邪気が切り捨てかねない大切なもの|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    率直に生きるというのはとても難しい。 ・発言を額面どおりに受け取る - タケルンバ卿日記 ・「相手にこう思われたらどうしよう」を、捨てよう。 - GoTheDistance #ふたつ目のリンク先がコメント欄になっていたため修正 確かに「社交辞令が効かない会」は魅力的だ。たとえば、日常が社交辞令や駆け引きや婉曲表現に満ち満ちていて疲れる。そんな風に感じるとき、避難場所として「社交辞令が効かない会」の会員同士で集まって、そんな面倒なスキルを必要としないコミュニケーションを楽しむ。これはなかなかに心惹かれるものがある。けれども、それは前提を共有しているからこそ得られる心の平穏だともいえる。前提を共有しない社会でこの方法を実践するには、相当の覚悟と根性が必要だろう。学校や会社といった簡単には逃げられない共同体内で、自ら居心地を悪くする可能性も低くない。 過剰な空気読みや、それを半ば強制するような無

    cs133
    cs133 2008/07/22
    そういう人がいる限り社交辞令は必要だろうな。関わり持たず逃げ出すために。
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