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2007年3月16日のブックマーク (8件)

  • -OKWave

  • “熱中高校”って、なんだ - 内藤朝雄HP −いじめと現代社会BLOG−

    1981年、『ひと 2月号』(太郎次郎社)に掲載された内藤朝雄さんの文章です。愛知県立東郷高校における「管理教育」についての、渾身のルポです。(この文章は『〈いじめ学〉の時代』(柏書房)に収録され、さらに当時の教員との対談や、新たな考察が付け加えられた。) ******************* ?熱中高校?って、なんだ 〜愛知・東郷高校で何が行われているか〜 内藤朝雄 ■はじめに ぼくが高2までかよっていた愛知県立東郷高校は、1968年、現・仲谷愛知県知事が教育長のときに“新設校プラン”のモデル校として創立された。愛知県の県立高校は、大別して、新設校と既設校というふうにわけてよばれていて、東郷高校以後にできたのは新設校、それ以前からあったのは既設校というわけだ。そして、それ以降につくられる新設校は東郷高校を手にしてつくられている。 その東郷高校で、どんな教育が行われているのか、ぼく自身

    “熱中高校”って、なんだ - 内藤朝雄HP −いじめと現代社会BLOG−
  • 子どもの頃から過労死しそうだと思った - kmizusawaの日記

    ▽小中学校で1日7コマの授業を実施▽夏休みや春休みを1週間程度短縮▽早朝の10分間授業▽土曜日の補充学習Error素案の段階なので、この通りになるってわけではないだろうけど。いったいどこの進学校だよ、と思った。高校かと。これを全国の小中学校で取り組むように促したいと。1コマの時間数を減らすとしても、小学生に一日7科目も勉強させてどうしようってんだろう。そういうのが苦にならない子もいるかもしれないけど、授業を真面目に聞いているのが苦痛だった私など、もう学校を卒業して長い時間が経っているのに、考えただけでゲロゲロ。なんの拷問だ。ゆとり教育がダメとなると、夏季休暇の短縮案まで出てきて、今度は前以上に詰め込みの感が。そもそも「ゆとり授業」がどうのこうのと言われているけど、これまでだって実質上子どもにとってそんなにゆとりはあったんだろうか。なんでも自分の頃と比較するのは年長者の悪い癖だし、昔と今とを

    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2007/03/16
    永遠に行ったり来たりを繰り返すんですかね。
  • 「自由」に痛めつけられた人間は「自由」のない状況にちらっと憧れる(こともある) - kmizusawaの日記

    二人組みになる必要があるなら、適当に順番で切ってけばいい。http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070315/1173947073そうそう、高校がこれだった。これで、二人組やグループ分けをするときにあぶれるわずらわしさから解放されて、その点に関してだけはたすかった。「学校というソーシャルな場所でなんで人を選ぶわけ?」 たしかにそうだ。だが、当時は、教員が一方的に決めるのは強権的抑圧的なやり方であり、生徒に自由に決めさせるのが「いいこと」という風にたいていの人は考えていた。つうか今もそうか。その高校の教員たちにしても別に学校がソーシャルな場だからということで機械的に割り振っていたわけじゃなくて、生徒に自由にさせるなどけしからんという発想だったと思う。万事そういう校風だったので。校内誌を作ってる人たちがなんだったか(別に政治的でもなんでもない他愛ない内容だったと思う

  • 科学=永遠のβ版 : 404 Blog Not Found

    2007年03月16日16:45 カテゴリSciTech 科学=永遠のβ版 やっとわかりやすい説明を思いついた。 痴呆(地方)でいいもん - トンデモの空白をどううめるか 基的には、トンデモさんに対して我々ができるサポートは、この試行錯誤を支援することのように思う。また、我々がトンデモにおちいらないためには、この試行錯誤に耐えるべきだと思う。 赤の女王とお茶を - 理科教育より科学教育を実際はこの「試行錯誤のやり方」こそが科学のコアなんであって、それが掴めないといつまでたってもあっちからこっちへと右往左往することになりかねません。 「耐える」のではなく「ハック」するではどうだろう。 タイトルどおり、科学を永遠のβ版とみなすのだ。 確かに永遠のβ版には、100%保証はありえない。それでもそれが役に立てば人々は使う。間違っていることだって、使いながら直して行けばいい。すでにそれがうまく行くこ

    科学=永遠のβ版 : 404 Blog Not Found
  • 赤の女王とお茶を 理科教育より科学教育を

    トンデモの空白をどううめるか 基的には、トンデモさんに対して我々ができるサポートは、この試行錯誤を支援することのように思う。また、我々がトンデモにおちいらないためには、この試行錯誤に耐えるべきだと思う。試行錯誤のプロセスの中では、疑似科学にひっかかり、失敗する経験も必要となることもあろう。 実際はこの「試行錯誤のやり方」こそが科学のコアなんであって、それが掴めないといつまでたってもあっちからこっちへと右往左往することになりかねません。 結局のところ、「理科」教育というのは科学によって得られた知識を「権威」として教え込むことが中心になっていて、現在の日では「科学というプロセス」を学ぶ機会は大学院に入るまで(あるいは入ってからも!)ほとんど存在しません。 だから権威としての「科学(知識)」を盲信するか、あるいはアンチ権威としての「ニセ科学」に転向するか、いずれにしても極端に走りがちなのです

    赤の女王とお茶を 理科教育より科学教育を
  • http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20061211/1165803784

  • ある病人の半生

    小学校の終わり頃に患った精神障害(かなり特殊な神経症のひとつ)に人生を狂わされた。あまりにも早すぎて、まだ碌に人生など始まっていない時期の発症だったから、狂わされたというのは少し妙な言い方かもしれない。ともかく、あるきっかけから発症し、その後の生活は全てその障害に支配されることになってしまった。対人恐怖症に似たもので、自分の内面を知られることや、人と会話することが恐ろしくて、何もできなくなった。たくさんいた友達を全て失って、親や兄弟との会話も難しくなった。なんとか学校には行っていたけど、ずっと一人だった。昼休みは図書館の一番奥の席で誰にも見つからないように時間を過ごし、授業が終わると真っ先に教室を出て、近所の公園に向かった。そこのベンチに座って何時間が過ごして、6時くらいになったら家に戻るという毎日だった。いちおう部活に籍を置いていたから、家にはあまりはやく帰れなかった。傍から見たら、完全

    ある病人の半生