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ブックマーク / sivad.hatenablog.com (29)

  • 「脳死は人の死か」という以前に「脳死判定が本当に脳の死を意味しているのか」が問題 - 赤の女王とお茶を

    臓器移植法案に関して、「脳死は人の死か」、ということに関する意見表明がちらほら見られて、それはそれでいいことだと思うのですが、脳死についてはそれ以前に考えるべきことがあります。 脳死に関する問題は大きく三つに分類されて、 1.どのように『脳の死』を判定し定義するか 2.脳の死が個人の死であるのか 3.個人の臓器をどう扱うべきか と考えることができるわけですが、臓器移植法関連では2以降がよく議論されて1がスルーされがちです。 しかしまず考えるべき、重大なことは1の問題です。 皆さんは脳の死、と言ったとき脳のどのような状態をイメージするでしょうか。 脳波がピーーー、とフラットになった時? それとも脳組織そのものが豆腐のように崩壊してしまった状態? 二つはイコールではありません。 前者のイメージ、脳の機能が外部から測定不能になったときを脳の「機能死」といいます。 後者の状態、脳組織自体が修復不能

    「脳死は人の死か」という以前に「脳死判定が本当に脳の死を意味しているのか」が問題 - 赤の女王とお茶を
  • 土佐で絵金を見てきたよ - 赤の女王とお茶を

    所用で高知県に出向いた折、ちょうど長年の懸案事項であった絵金祭りが開催されていたので是非もなく参加しました。高知市から20キロ、空港近くのひなびた田舎町赤岡にてその祭りは小ぢんまりと始まります。歴史は古く幕末から行われているそうです。 「絵金」てのはどちらかというと知る人ぞ知る、という類のある異端日画家の通称。私もギャラリーフェイク*1で読んで知ったクチですし、フツーに生活していては触れる機会は少ないでしょう。 こちらの説明によると、 絵金こと金蔵は、1812年、高知城下の髪結いの息子として生まれた。幼少の頃より画才に秀でていた彼は、土佐藩の特別の取りはからいによって江戸にのぼった。そして狩野派を学び藩のお抱え絵師の座にまで上り詰め、林洞意と名乗った。しかし、贋作事件の汚名を被り一介の町絵師へと転落を辿る。だが、野に下った絵金は、謎の十年間を経て再び、狩野派仕込みの確かな筆致と豊かな才能

    土佐で絵金を見てきたよ - 赤の女王とお茶を
  • 嫌中的なアプローチはチベットの利益にならない - 赤の女王とお茶を

    んじゃないでしょうか。単純に。 例えばこちらも最近話題のオーストラリアの反捕鯨運動を見るとよく分かるんですが、あからさまに日を嫌っている人達の言葉やパフォーマンスは、反発を招けど決して正しい効果は持ち得ません。 日や日人の態度を硬化させるだけで、捕鯨抑制に理解を示そうとする人にすら反感を抱かせるし、たとえ正しい理屈を言っても届かなくしてしまうわけです。 チベット問題に関して重要なのは中国当局が合理的判断によってチベットへの暴力行使を止め、自治の方向へ向かい始めるような流れを作ること。 面子を重視する中国のこと、嫌中的なアプローチでは多様な中国内の親チベット派にすら反感を抱かせかねません。 それでも悪いのは中国だ?もちろんその通り。 しかし今この場合最優先なのはチベットの利益であって、中国の不利益ではない。 とかく社会運動で重要なのは、目的を見失わないこと。ドラッカーもいうように、ビジ

    嫌中的なアプローチはチベットの利益にならない - 赤の女王とお茶を
  • 人生選択の責任は、その人生を生きているということ自体ですでに果たされている - 赤の女王とお茶を

    だから、他人があーだこーだいう筋合いはないし、自分ですらその「責任」について思い悩む必要はないと思います。趣味ならいいんですが。 今現在の人生は、自分と、他人と、環境との相互作用によって形成されていて、これからの人生もそう。 まずコントロールできるのは自分であるとはいえ、結果は相互作用によって生まれるので最終的にはカオスです。 そして、そういうカオスなリスクをある程度ヘッジするために、人間は社会を持っている。 出来る限りのリスクを社会を使ってヘッジしながら、自分は自分で選択を積み重ねていく、というのが人類が21世紀までに積み重ねてきた人生のノウハウです。 アリやハチといった社会性昆虫では、おのおのの「個体」があるとはいえ、もはやそのコロニー自体が一個の生物と考えても良いくらいの徹底した機能分担が成されています。社会機能が生存に必須になっているため、「進化」ですら今後は個体レベルでなく、集団

    人生選択の責任は、その人生を生きているということ自体ですでに果たされている - 赤の女王とお茶を
  • 学問に潜む価値判断について - 赤の女王とお茶を

    疑似科学、批判、道徳。 や、 dojinさんへの応答 を読んで感じたんですが。 まず、 「科学は価値判断を含まない」 ということ、これは科学とは「地図」であるでも書いたように、基的には正しいと思います。科学は"How"を明らかにするけれど、"Why"には答えない、というのはつまり、道筋を明らかにはするけれど目的地を決めるわけではない、ということです。 生命や宇宙が「どのように」存在しているのか、存在してきたのかを探る方法ですが、「なぜ」そうでなくてはならないのか、という究極には答えない。 …とはいうものの、主観的な価値判断と科学・学問が無縁かといえばさにあらず。 専攻する分野によって、なんとなく価値観が似てくるというのは経験的にはよくあることですね。 それはやはり、科学といえども単なる分析方法だけではなく、一種の「世界観」、つまり価値判断を予め含んでいるからではないでしょうか。 それが「

    学問に潜む価値判断について - 赤の女王とお茶を
  • 「世の中は変えられないから自分が変わる」という人は自分で檻を作って自分で檻に入っている - 赤の女王とお茶を

    といえるのかもしれません。女性に限らずね。 自分で檻を作って自分で檻に入った奇妙な獣 社会システムというものが権力によって構築されるとするならば、その仕組みは当然、権力を利するようになっているはず。 つまり権力を持たないものが単純にシステムに「適応」することは、権力者を直接間接に利することに他ならず、「自分の首を絞めている」と見ることも可能です。 そうはいっても、目の前の権力や強者やシステムに適応・迎合した方が都合がいいという判断は個人・短期のレベルでは十分にありえます。 クラスでは空気に合わせて道化を演じた方が居場所を確保できるし 職場ではサービス残業に励んだ方が上司の心象がいいし アメさんに成果主義といわれれば成果主義、フラット化といわれればフラット化を所与にしておいた方がいいだろう そして 男性がカネや権力を握っているなら、それを男性と奪い合うより共有する立場に立った方がトクだろう

    「世の中は変えられないから自分が変わる」という人は自分で檻を作って自分で檻に入っている - 赤の女王とお茶を
  • 2007-10-13

    リビングサイエンスアーカイブス 多くの基礎物理学の研究者には、研究成果は自己の私的財産という小所有意識が濃厚で、同時に平等でアトム化された研究者は、人間の価値までも研究成果を通じてのみ評価される。研究者はひたすら細分化された自閉領域の中に自らを追いやり、全体的な学問像も、社会的な学問の位置も、見失ってゆく。同時に脱イデオロギー現象は極限に進み、結果として体制べったりとなってゆく。論文生産競争により、物量に物を言わせた実証主義が万能視され、めぐまれた東大の研究者をより一層権威づけるとともに、冷遇された地方の研究者までがそれに追随し、独創性をなくしてゆく。こういったことがいかにして論理的に歴史的・社会的正当性をもつにいたったかが重要である。 なんか日の学術界40年間全く進歩無し。というか悪化? 山氏流石というべきなのかもしれないですが。 こういう考え方を淘汰するメカニズムが働いていて、状況

    2007-10-13
  • 赤の女王とお茶を - 5分でわかるドーキンスvsグールド

    ドーキンス VS グールド (ちくま学芸文庫) 作者: キム・ステルレルニー,狩野秀之出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2004/10/07メディア: 文庫購入: 6人 クリック: 45回この商品を含むブログ (70件) を見る久しぶりに再読。やはり面白いです。 せっかくなんで生物学界の二大プレゼンテーター、リチャード・ドーキンスと故スティーブン・J・グールドの生物進化観と、その論争について簡単にまとめてみましょう。 「利己的遺伝子」のドーキンス。 「断続平衡説」のグールド。 なんといっても二人を特徴付けるのはこれらの斬新なキャッチフレーズでしょう。 しかし同時に多くの誤解を生んだのもこの言葉たち。まずこの2つのフレーズについて、よくある誤解と正しい理解をチェックしておきましょう。 ・利己的遺伝子 あまりにも有名なこのフレーズ。「ミーム」と並んで、ドーキンスのコピーライターとしての才能

    赤の女王とお茶を - 5分でわかるドーキンスvsグールド
  • 2007-07-28

    「入社時から給与に格差を」経団連会長、フォーラムで 御手洗冨士夫会長(キヤノン会長)は、学生を成績や論文で評価し、入社から給料に格差をつける仕組みの導入を提案した。 まあどういう評価基準を使うかは各自で考えればいいんじゃないでしょうか? キャノンさんがそうしたければ「自己責任で」そうすればよろしい。「みんな一緒に」導入する必要もない。 それはわりかしどうでもいいとして、こちらの見解はいただけない。 御手洗会長は、採用の改革について「平等に採用して会社では年功序列。競争の原理からほど遠く、イノベーション(革新)は生まれない。社会正義を平等から公平に変え、それに沿った学校教育、採用試験、給料体系にしないといけない」と呼びかけた。 単に競争すればイノベーションが生まれると思っているオジサンが多くて困りますね。ドラッカー、ちゃんと読んでる? そもそも、競争というのはなんらかのルールに従って勝敗を競

    2007-07-28
  • 赤の女王とお茶を - 幸せはカラダに聞け

    これですよね。こうやって観ると2も結構いい感じだな。 神父! 後ろ! 会社に人生を捧げている人は幸せか? どうやって生きて行けばいいかわかりません。 「イノセンス」において押井監督は、「生の喜びを真に感じられるのは動物である」と表現しました。 つまり有象無象の「概念」に惑わされることなく、身体という「生」によって直に「幸福」に接しているからです。 とはいえ、人間のカラダも結構ちゃんと「幸せ」を知っています。 いかにアタマで「やりがい」や「意義」を思い、「金」や「名声」を思っていても、それが真にカラダの求める「喜び」でなかったならば、多くの場合ハラやムネにもやもやとした違和感を感じているものです。 そしてそれを続けていれば、やがては体を壊すことになるでしょう。 逆にいえば、毎日の体調がよく、三度のメシが美味い。空の色や花や芸術が美しく、家族や友人との会話が弾む*1。 そういう仕事が出来ている

    赤の女王とお茶を - 幸せはカラダに聞け
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2007/06/17
    外から与えられる「幸せ」に無理に適応しても虚しいだけ。無理して続けるとつぶれる。
  • 赤の女王とお茶を-倫理の根源は想像力にあると思う

    mojimojiさんからTBをいただいたので応答しておこうと思います。 まず、前回は森岡さんの土俵に乗るつもりがなかったので直接書きませんでしたが、森岡さんの問い ホームレスのそばを通り過ぎたとき「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか への答えは「言える。ただし、加担していない、とも言える。」になります。可能かどうかということであれば、いずれも可能というしかありません。 倫理や責任の根拠の一つに「因果関係」は確かに使われるけれども、それは必ずしも堅牢なものではないことは何度か書きました。 ではその他の根拠は何かというと、あと2つほど考えられると思います。 一つは社会運営上のルールとしての根拠。 これがmojimojiさんが批判される 法的責任や倫理的責任は、制度として「創造される」 という側面にあたります。 が、mojimojiさんも こういう議論に

    赤の女王とお茶を-倫理の根源は想像力にあると思う
  • 赤の女王とお茶を-ヤバイのは理科教育より文科教育では?

    例えば、 憲法は国民に対する最高法規である  Yes or No ? だとか 無期懲役は終身刑と同義である  Yes or No ? なんていう問題にどれくらいの正答率があるんでしょう*1。大学生のみならず、社会人においても。 こんなのやあるいはこういうところを読むと、われわれが自分の生きている社会の根ルールについていかに無知かを思い知らされます。 もちろん、科学も世界についての「根原理」の一つですし、その方法論や知識について沢山学ぶに越したことはありません。 が、「理科教育」が国を筆頭に声高く喧伝されるのに対して、「文科教育」、すなわち政治の仕組みや法律、経済、あるいは広告の原理などに関する教育について広い議論がなされる気配はほとんど見受けられません*2。 それどころか「徳育」「親学」などという明後日の方向へ力が入る始末。理科教育で言えば、化学を教えずに水伝を教えるようなもんです。

    赤の女王とお茶を-ヤバイのは理科教育より文科教育では?
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2007/05/27
    社会のあり方に関わる以上、文科教育のダメさの方が問題でしょうね。
  • 赤の女王とお茶を 茂木と梅田のいる場所は既に科学者が2000年に通過した場所

    科学者に衝撃を与えた「ロマンティックでない」グーグル 今頃何をいってるんだか。この人たちはかの「ヒトゲノム・プロジェクト」を忘れたのか? 特に茂木さん、生命科学研究の歴史を知らないんでしょうか。 あの頃も一種の狂騒状態で、バイオ研究者のすることはなくなるんじゃないかというまことしやかな説が飛び交ったもんです。 確かに遺伝子情報が誰でも手に入れられるようになり、それまでの単に遺伝子を同定しただけで論文が書けていた時代は終わりました。 しかし生命科学研究は終わるどころか、一層白熱しています。機械的な遺伝子配列の解読をしなくてすむようになったおかげで、より「人間的な能力」が研究にとって重要になりつつあります。 それは生物学的意味づけであり、根源的な洞察であり、観察と直観であり、イマジネーションの力なのです。 情報格差を利用して知識を切り貼りし、それっぽいハッタリでっている人たちにはやや危機的な

    赤の女王とお茶を 茂木と梅田のいる場所は既に科学者が2000年に通過した場所
  • 生存適者日記 - 責任と原因は違う

    http://blog.tatsuru.com/archives/001389.php 恒例、内田センセ曖昧説。 これはですねー、典型的な責任と原因の混同なわけですよ。以前も書きましたが、日語はこの誤りを犯しやすいんですね。 例えば「〜(誰々)が・も悪い」という言い方。 よくあるのは「虐められるほうも悪い」とか「騙されるほうが悪い」ですか。 虐められたり詐欺にあう場合、被害者にもその「原因」は当然あるでしょう。ですがそれは「責任」があるということではない。しかし、「悪い」という表現では、同時に「責任」まで付加されてしまうのです。 「原因」というのは科学的な因果関係があるということです。 それに対して、「責任」というのは社会的なルールによって決められた「義務」です。つまりその範囲はできるだけ予め決まっているべきものです。 ここんとこやたら「責任」に関するトラブルが多いのは、それを予め決めて

    生存適者日記 - 責任と原因は違う
  • 捏造される「好き」にご注意 - 赤の女王とお茶を

    「好きを貫く」のはそんなに簡単なことではない。 一つ学ぶ点があるとすれば、 「何が好きなのか」という根源的な問いに答え続けようと努力する のくだりでしょうか。 人間の「欲望」は往々にして社会的に形成されます。 「もし知らなければ望まない」ようなモノは基的に社会的文化的に形成された「好き」であって*1、それゆえに外部から操作されやすい。 何しろ一旦「好き」になってもらえればいくらでも消費してくれるし、タダ同然で労働力を差し出してくれる。 こんなオイシイ話はないわけです。 だからこそマインド・ハックから脳を守る二冊で書いたような心理テクニックを使い、世の中は是が非でも「好き」を捏造しようと迫ってくる。 はっきり言ってしまうと、まず注意すべきなのは「好きなことをしろ」と声高にいう人達なのかもしれません。 ところで、「皆が好きなことを追求する」ことによって、こちらでも書いたように「全体としては不

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  • 赤の女王とお茶を - いいかげん、教育を「量」で考えるのをやめたらどうか

    第101回 東大の「産業総論」で露呈 日人の知力崩壊が始まった 当分の間日は、ゆとり教育で頭がこわれた連中がまき起こす総社会的知的レベルダウン現象に悩まされつづけることになる。その間に日という国がこわれてしまわねばいいがと最近当に心配している。 もちろん、最終的には知識量が問われる場面もあります。 が、ここでも書いたように、一番重要なのは頭の中に「回路」を作ることなのです。 論理的な回路。 数学的な回路。 科学的な回路。 芸術的な回路。 文化的な回路。 歴史的な回路。 「センス」あるいは「モード」と言い換えてもいいかもしれません。 教育の「量」も「質」も、最終的にこういった「学習オートマトン的回路」を形成するためにデザインされなくてはなりません。 「ゆとり」だ「詰め込み」だという二元論で語っている限り、教育は良くなりようがないんですよ、立花さん。理科の知識を詰め込むだけでは科学的思

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  • 赤の女王とお茶を - 心の中の差別を禁じる法はない

    他人の職業にわざわざ貴賎をつける愚かな人々。 日国憲法第14条には すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 とあり、日国および日社会は国民を「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において」差別的に扱ってはならないことが明白です。 ただし、これは個人が個人に対して差別心を持ってはならないというところまでは保証しません。 むしろそこまで踏み込んでしまうと逆に「思想の自由」に抵触する恐れがあります。 ですから心の中で差別したい人は自由にすればいいと思うのですが、それに社会的な理由付けをして表現するとなると、話は大分変わってきます。 大体、個人において「差別」したいならば話は簡単、「私は〜が嫌いだ」で十分なのです。そこにウダウダ社会的な理屈を付ける必要はない。社会

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  • 赤の女王とお茶を 理科教育より科学教育を

    トンデモの空白をどううめるか 基的には、トンデモさんに対して我々ができるサポートは、この試行錯誤を支援することのように思う。また、我々がトンデモにおちいらないためには、この試行錯誤に耐えるべきだと思う。試行錯誤のプロセスの中では、疑似科学にひっかかり、失敗する経験も必要となることもあろう。 実際はこの「試行錯誤のやり方」こそが科学のコアなんであって、それが掴めないといつまでたってもあっちからこっちへと右往左往することになりかねません。 結局のところ、「理科」教育というのは科学によって得られた知識を「権威」として教え込むことが中心になっていて、現在の日では「科学というプロセス」を学ぶ機会は大学院に入るまで(あるいは入ってからも!)ほとんど存在しません。 だから権威としての「科学(知識)」を盲信するか、あるいはアンチ権威としての「ニセ科学」に転向するか、いずれにしても極端に走りがちなのです

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  • 赤の女王とお茶を:コミュニケーション力とは本来、プレゼンテーション力と被プレゼンテーション力からなる

    Dependence of neurotrophic factor activation of Trk tyrosine kinase receptors on cellular sialidase. まあ実際にどうなのかは分かりませんが、こんな効果もあるということで。 細胞レベルの実験では、NGFやBDGFによる神経突起延長を阻害するらしいです。どうもTrkAまたはTrkBといったレセプターの機能を阻害するということなんですが、まだまだハッキリしたことは分からない模様。TrkAは無痛症、TrkBはうつ病に関係が深いということで、やや意味ありげ。 インフルエンザウイルスの増殖抑制作用はもちろんはっきりしていますが、やはり何かしら神経作用もありそうなのできちんと研究して欲しいところですね。 コレを読んで。 コミュニケーションというのは双方向性のものなんだから、「内向的で不器用」な人間を理解で

    赤の女王とお茶を:コミュニケーション力とは本来、プレゼンテーション力と被プレゼンテーション力からなる
    dasaitama_osamu
    dasaitama_osamu 2007/03/02
    でも声は大きいけど被プレゼンテーション力が無い人に「被プレゼンテーション力を持て」と言っても聞く耳持たないのでどうしようもない。
  • 赤の女王とお茶を - アメリカの科学教育は76ヶ年計画で着々と進行中。

    納豆だの波動水だの血液型だのに沸く日列島。 安部首相率いる現政府は「識者」達の「教育再生会議」を招集し、実にステキな対策や提言を通じて教育改革に取り組んでいます。 一方、アメリカにおいては既に1985年から大規模な教育改革プログラムが発動しており、現在も進行中です。 その名も"Project 2061"。 Project 2061は、先日も書いた最強の民間理系支持団体AAASを中心として、様々な分野の専門家を集め国ぐるみで作成された一大プロジェクトであり、全アメリカ国民の科学的思考力を増進するための76ヵ年計画を米国全土、あるいは州レベルにおいて遂行せんとする極めて戦略的で具体的なプランです。 Project 2061ではまず、Science for All Americansという報告をまとめ、「科学」とは何か、そして国民が身に付けるべき「科学力」とはどういうものであるか、について徹底

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