馬齢は旧表記で統一する。 3歳にして500キログラムを超える当時としては破格の大型馬であったが、仕上がりは早く1958年8月にデビュー。2戦目に勝ち上がると、2度の惜敗のあと4連勝を果たす。唯一の特別競走勝利はこの時期に記録している。さらに休養明けの競走も勝ちクラシックロードに乗った。ところがこの5連勝以降は器用さのなさが露呈し重賞では惨敗続きで、最大目標だった東京優駿では不良馬場にも祟られ勝ち馬・コマツヒカリから離された22着に終わっている。 先行粘り込みしかできない脚質ゆえにレベルの低いオープン戦以外では勝ち負けできない日々が続いたが、5歳時(1960年)には秋の天皇賞こそ11頭立て10着に惨敗[1]したものの、適距離の新設重賞・宝塚記念[2]を含めて5戦続けて2着となるなど大負けは少なかった。 6歳時、安田記念ではホマレボシを相手にして僅差の2着となる。6月のオープン戦から休養を挟ん