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ブックマーク / wararchive.yahoo.co.jp (6)

  • 「焦げた赤ちゃんを抱いてボロボロ泣いた」原爆で父失い絶望した19歳、留学生がくれた希望 #戦争の記憶 - 未来に残す 戦争の記憶 - Yahoo! JAPAN

    78年前、19歳の少女は原爆の惨禍を目の当たりにします。「空にはピンク色に光るキノコ雲、逃げてきた人の顔は風船のように膨れ上がり、皮膚がベロンとめくれていました」。父とはぐれ絶望する彼女に生きる希望を与えたのは、東南アジアからの留学生でした。今だからこそ伝えたい、国や宗教の違いを超えて助け合える人間の強さとは。 (TSSテレビ新広島) 「アメリカ戦争が始まったので家に帰りなさい」 日軍がマレー半島とハワイの真珠湾を攻撃した1941年12月8日、太平洋戦争が始まりました。広島女学院高等女学校の生徒で当時15歳だった栗原明子(めいこ)さん(97)は、朝から広島市西区の観音町にあるグラウンドを整備するため集まっていました。しかし「アメリカ戦争が始まったので家に帰りなさい」とすぐ帰宅を命じられます。 「戦争ってどんなもんかわからんでしょう。怖くて怖くて仕方なくてね。友達と会話することもなく走

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  • 空から降ってきた憎い敵を「みんなで竹槍でぶっ殺した」 住民を残酷に変えた郡山空襲 #戦争の記憶 - 未来に残す 戦争の記憶 - Yahoo! JAPAN

    太平洋戦争の末期、日国内でアメリカなどの連合軍による空襲が激しさをましていた。おびただしい数の爆撃機が都市を襲い、死者は50万人に上った。その裏で、日の各地に墜落し、捕らわれた連合軍兵士がいたことはあまり知られていない。そうした歴史には、深い闇が隠れている。農村地帯に墜落し、生き延びた連合軍兵士を目の当たりにしたのは、一家の大黒柱や子どもたちを戦争で失った住民たち。空から降ってきた、死ぬほど憎い敵を前にした時、人はまともでいられたのだろうか...。(福島中央テレビ) 「ダダッ」機銃掃射で崩れる防空壕 死の恐怖に耐えた女学生 1945年4月12日午前11時過ぎ、136機もの米軍のB-29爆撃機が福島県郡山市の空に現れた。農業や工業が発達した開拓の街は戦中、「軍都」の一つとなった。集積する軍需工場を目がけ、大量の爆弾が投下された。工場に勤労動員されていた白河高等女学校の須釡千代さん(93)

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  • 「小さい人」をだますな 優しいのっぽさんの静かな怒り 感じた現代の

    5月、ある訃報がもたらされた。NHKの子ども向け工作番組「できるかな」などで人気を博した高見のっぽさんだ。のっぽさんは子どもを「小さい人」「おチビさん」と呼び、「小さい人はとても賢い」と言っていた。のっぽさんへのインタビューを振り返ると、その理由の一つに、自身の戦争体験が横たわっていたのが見えてきた。【江畑佳明】 生前最後の取材で語ったこと のっぽさんは昨年9月10日、心不全により88歳で亡くなったが、公表は今年5月10日。人の「半年は伏せてほしい」いう遺志があった。私たちは昨年7月21日、のっぽさんにインタビュー取材をしていた。亡くなる約50日前のことだ。後で聞いたところでは、これが最後の取材になったという(紙面掲載は2022年8月22日夕刊)。 取材の目的は「戦争の記憶」を聞きたかったから。終戦時に11歳だったが、その体験を語り出したのはつい最近のこと。2015年に出版された「私の『

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  • 「ドイツは仲間だと思っていた」会津で発見されたフィルムに映るナチスの接近 #戦争の記憶 - 未来に残す 戦争の記憶 - Yahoo! JAPAN

    太平洋戦争の終結からまもなく78年。戦争体験の継承が困難になる中、「軍都・会津若松」で戦中の生活を映した貴重なフィルムが見つかった。当時を覚えている男性は「骨が浮き出るほど痩せても、勝つと信じていた」と振り返る。フィルムには、ドイツのナチ党が立ち上げた青少年組織=ヒトラー・ユーゲントが会津若松を訪れる場面も捉えられていた。三国同盟を結び、連合国と戦った日ドイツ。2つの国の結束を高め、人々を戦争へと向かわせるために利用されたのは、会津で語り継がれる「白虎隊」だった。(制作:福島中央テレビ) 白虎隊に贈られたドイツ語の石碑 旧徳川幕府軍などと新政府軍が戦った泥沼の内戦、戊辰戦争の悲劇の地として知られるのが福島県会津若松市の飯盛山。16~17歳の少年で構成される会津藩・白虎隊士が「鶴ヶ城に戻って敵に捕まれば武士の恥、主君のために殉じよう」と、自刃した場所である。 この場所に、やや異質な石碑が

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  • 「1人で泣くこともある」市職員として働く避難民 母親の

    に逃れたウクライナ避難民は2千人超、置かれた境遇はさまざまだ。「自分はラッキーだった」と語るのはオルガ・ナセドキナさん(33)。東京のベッドタウン、千葉県鎌ケ谷市の会計年度任用職員に採用され、市広報誌へのコラム執筆や小学生の英語学習の指導助手など安定した仕事を得た。 平穏な生活を取り戻しつつあるように見えるが、「正直に言うと、1人で泣くこともある」という。幼い2人の息子と共に、彼女は異国で今日も「戦って」いる。(千葉日報社市川支局 小北清人) いつまで無事でいられるか...日行きを決意 鎌ケ谷市は人口11万人の千葉県北西部のまちだ。市役所3階の企画政策室に彼女の机がある。昨年10月4日に住民票をつくり、12月5日付で職員として採用された。週3~4日の勤務だ。 彼女から一つ、要請を受けた。ウクライナにいる夫について話すのは控えたいというのだ。夫の職業はジャーナリスト。「いまウクライナ

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  • 黒柳徹子さん「戦争反対」なんて言えなかったあの頃 いつもおなかが空いていた幼少期 #あちこちのすずさん - 未来に残す 戦争の記憶 - Yahoo! JAPAN

    「どんなにいい考えを持ったり、希望を持ったり、才能があったりしたって、戦争があったら全部なくなっちゃう」 戦争で犠牲になる子どもたちへの思いを強く語る黒柳徹子さん。テレビ女優第1号となった1953年から、第一線で活躍を続けています。アジア初のユニセフ親善大使としては、世界中の貧困に苦しむ子どもたちを見てきました。(取材・文:NHK「#あちこちのすずさん2022」取材班/写真:NHK) 「戦争って泣いてもいけないんだ」 太平洋戦争が開戦した1941年、黒柳徹子さんは8歳。現在の東京・大田区に、両親と弟と暮らしていました。「戦争」は子どもだった黒柳さんの生活のあらゆるところに影を落としました。 ――幼いながら、どういったところから戦争を感じたのでしょうか。 「まずべ物がどんどんなくなっていくっていうことですね。ごはんでも何でも配給じゃないとものが売ってない。それから何を買うにもずっと並ぶんで

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