宮台真司氏が、「KY」と日本の論壇の幼児性を結びつけて論じているが、私も同感だ。日本のメディアは空気によって党派がわかれ、慰安婦でも沖縄でも、初めに結論ありきで、歴史的事実におかまいなしに、朝日=岩波ムラと産経=文春ムラにわかれて罵倒の応酬が続き、論理的な論争が成立しない。たとえば『諸君!』に執筆すると、文春ムラに入ったとみなされ、そっち系の雑誌からばかり注文が来るようになる。 こういう無人称の空気こそがかつて日本を戦争に引きずり込んだのだ、と指摘したのは山本七平だが、その原因を彼は分析しなかった。私は、この謎を解く鍵は、山本が空気と関連して論じた水にあると思う。といっても彼は「場の空気に水を差す」というように空気=雰囲気と対立する通常性の原理として水をとらえたのだが、ここで私がいうのは文字どおりの水、すなわち農村の水利構造である。 われわれはつい忘れがちだが、日本では50年前まで人口