サイゼリヤに食事に行ったら隣に女子高生3人組がいた。勿論盗み聞きなどする気はなかったし、する必要もなかったのだが、聞くとはなしに内容が聞こえてきてしまった。何せ、視界に入るあらゆるものにケチをつけまくるのである。基本的には窓の外を見ながら、ちょっと変わったTシャツを着ている人を見つければ、「見て見て、あのTシャツありえなくね?(笑)」。はげてる人を見つければ、「はげ発見!(笑)」。少し変わった服装の女性を見つければ、「あの人時代逆行してね?(笑)」と、とにかく否定しまくる。見た目はごく普通の、髪を染めるなどもしていない女の子3人だったので(別にギャルならさもありなんと言うわけでもないが)、少し意外な思いをしていた。 ちょっと焦ったのは、すぐ近くの男性1人の席にステーキが運ばれてきたときのこと、サイゼリヤに行ったことのある人なら分かるかもしれないが、ある種類のステーキを頼むと、ジュウジュウと
最近奇妙なというか、不本意な体験をした。 来賓として出席した首都大学東京の入学式の折、学長、理事長に続いて三人目に祝辞をのべたのだが、それまで司会の若い小綺麗(ぎれい)なアナウンサーが、その度学生たちに起立を促しているのだがなぜか礼をさせない。私の時も学生たちは起立したが『礼』とはいわれないので、私は司会者に『わざわざ立たせておいてなぜ礼をさせないのだ。全員、礼』と号令したら学生たちはいわれるまま礼をし、私も応えて礼をした。 そうしたら会場の二階の方から拍手が起こった。後に聞いたら二階にいたのは新入生に同伴してきた父兄たちだったそうな。司会の若いアナウンサーが何ゆえに起立させた学生たちに礼をさせなかったのか理解に苦しむ。故にも帰りがけ件(くだん)の女性に注意しておいた。 『礼』と促した私に拍手した父兄たちにはいくばくの良識があったのかもしれないが、それにしてもあれほど多くの数の父兄が子供の
テレビで魚に右利き左利きがあることを発見した教授が出ていて、その話がすごすぎた。餌をとるのに右にばかり曲がる魚とか、魚にも利きというのがあるらしく、しかもそうした魚を干物にすると、右利きは右に曲がって干からび、左利きは左に曲がって干からびる、つまり骨格から利きが決まっているらしい。その比較を見せてもらったときは鳥肌がたったわけで、偉大すぎるだろ、とびびっていたのだけれど、アナウンサーさんは変な研究、と言いたげに苦笑していて、しまいには「なんの役に立つんですか?」という自然科学でもっとも野暮な質問をしてしまっていた。 ここらへんの話題は大好物なわけですが。この魚の話,僕は面白いと思えませんでした。僕の分野でも利き手の話はちょくちょく出てきますが,正直僕としてもso what?なんですよね・・・たとえば母親が赤ちゃんをどっち側で抱くかとかね。そういう発表をたまたま一緒に聞いていた某建築系の院生
受かりたい大学ができたら、とにかくその入試問題を解く。英語が話したいなら、とにかくネイティブとひたすら会話する。先人達は空を飛びたいから航空力学を学んだのだし、天気を知りたいから気象を分析したのです。学校で学ぶ勉強は、偉大な先人達ががむしゃらに学んだものを帰納的に整理して、演繹的で並べたものです。 この「遅延評価勉強法」って定期的に話題になる気がしますね。それぐらい本質をとらえているということかもしれません。これと直接関係あるか分からないんですが,あるとき僕は, 「体系的な説明よりも雑多な説明のほうが理解しやすい」 ということを確信して,色んな人に言って回ったことがあります。あんまり理解してもらえませんでした。体系的な説明ってのは教科書に代表されるような,整理された説明。授業とかもある程度こういうものかもしれません。プレゼンとかにおいても,事前にすごい準備されていて,当日はメモをひたすら朗
「賃金は、労働に対する需要と供給によって市場で決まる」ということを忘れてはならない。 冒頭述べた「デフレ・スパイラル論」は、現実のデータに照らしても、経済理論に照らしても、まったく正当化できない考えである。これは、新興国と競合するビジネスモデルから脱却できない企業のエクスキューズであり、責任転嫁であるとしか考えようがない。 なるほどねえ。この図は面白いなと思いました。 野口さんの話は分かりやすいですね。経済学者のことなので「そのデータはおかしい」とか異論はいくらでも出せるんでしょうけど,であれば,結局は「説得力」で動くしかないんじゃないかと思います。やってみてから「ほら間違ってた」は誰だって言えるし。
現在の日本のメディアの、すべての政治的できごとの成否を属人的な能力によって説明するスキームの定型性に私はいい加減うんざりしている。たしかに、外交がうまくいっていないという事実に為政者の個人的能力はふかく関与している。けれども、それが「外交の失敗のすべての理由である」としてそれ以上の吟味を放棄するのは、思考停止に等しい。歴代の統治者たちが組織的にある外交に失敗するとしたら、それは属人的な要素によっては説明できない構造的な問題があるのではないか、と考えるのが科学的な考え方である。日本のジャーナリストには、この「構造的な問題」を「科学的に考える」という構えが致命的に不足しているように思われる。 これは力作。だと思いました。引用したいところだらけなんですけどとりあえずここかな。 なんか鳩山さんが「馬鹿がトップの国は潰れる」とか発言したとかで話題になってますね。話の方向性は「お前が言うな」って感じか
本年度も,我が研究室の卒論生は皆無事に卒論を提出することができました。この研究室に来て4年,50人近くの卒論生をそれなりに見てきてちょっと思ったことがあるので書いておきます。 端的に言えば,ほとんどの卒論生が,論文を書くための訓練を受けていないか,あるいは,受けていても定着していない。これは卒論生を否定したくて言っているのではなくて,大学教育どうなってんだという話です。ちなみに僕が所属しているのは文系心理系。どちらかというと量的研究よりも質的研究のほうが多いかな。でも観察して数値化してみたいなのも多いです。対象は乳幼児が多い。でもその限りでもないです。 卒論を書くための技術というとそれはもうなんでもそうなんですが,特に彼らに足りていないのは以下の2点かなと思いました。 1,統計的検定など,研究法 2,先行研究のレビュー 論文を「書く」技術ってのもあるかなと思いましたが,それは2を進めること
それにしても、文科省があれだけなにも防衛できなかったということは、今まで彼らが提案して予算化されてきたプロジェクトのほとんどが客観的にどころか、彼ら自身ですらも自信を持って推進していたものではないということがすべて白日の下にさらされたということに思えます。 つまり、今までの予算の決まり方は、プロジェクトの内容がきちんと評価されて、どこから見ても問題のないものが採択されていたわけではなく、まさに文科省の「思いつきプロジェクト」がさしたる審査も受けずに決まっていたものばかりで、だからこそ「素人である」刷新会議の追求にタジタジになってしまったということなのではないでしょうか。 この解釈がいいかな。「日本の基礎科学は終わった」とか言うよりは,今までが終わってたと考えるほうが建設的。まあ悲観論者の声は大きいというのはあるのかなと思いますが。とりあえず,科学予算が削られるのはある程度仕方ないにせよ,文
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