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ブックマーク / mzsms.hatenadiary.org (2)

  • 疑似科学批判・批判の補足 - mzsmsの雑記

    こういう状況を想像してみてください。 ある疑似科学的な主張が社会に流布し、信じこむ人がいて、効果のない医療方針によって疾病を悪化させる人が大勢でたとか、何か不都合なことが起きた。科学者が「疑似科学だ」と批判したところ、その主張者は「私たちは『科学的だ』と主張しているわけではない。これは非科学的ではあるけども、真理だ」と反駁した。そして、その主張を信じ込む人は減らず、やはり疾病を悪化させる人が減らないなど、不都合なことは継続したままである。 このとき、疑似科学批判は、何ができるのでしょうか? 主張者が非科学的であることを認めたから、それで満足なのでしょうか? もし、そうであるならば、疑似科学批判は社会の人々の不利益についてよりも、「科学」という名称の使い方、「科学」という縄張りについて関心があったのだといわれてもしかたないでしょう。 そうではなく、「彼らは、自ら『非科学的』だといっているが、

    疑似科学批判・批判の補足 - mzsmsの雑記
    dlit
    dlit 2009/04/10
    あーなんか科学をきちんと実践している科学者に煙たがられる(自称)科学哲学者像ってのがわかった気がする。
  • 疑似科学批判・批判 - mzsmsの雑記

    僕は、ウェブで見かける疑似科学批判に、不満を持つことが多い。一言でいえば、「科学」というレッテルの帰属を争うだけでは、たんなるセクショナリズムに過ぎない、という不満だ。 少なくとも論理実証主義者は、科学と非科学のセクショナリズムセクト主義のために、検証主義を唱えたのではない。あえて乱暴な言い方をすれば、彼らは、知識と非知識、事実と非事実、命題と非命題を区別する基準として、検証主義を唱えたのだ。だから、彼らにとっては「非科学的な知識」や「非科学的な事実」や「非科学的な命題」というのは一切存在せず、「科学的な知識」「科学的な事実」「科学的な命題」というのは過剰修飾である。彼らにとっては、信仰告白宗教告白も、道徳的主張も、詩も、まったく無意味(「無価値」ということではないが)。 彼らの志の高さを、いまの一般的な疑似科学批判はどれだけ受け継いでいるだろうか。それを受け継がないのに、検証主義を持ち出

    疑似科学批判・批判 - mzsmsの雑記
    dlit
    dlit 2009/04/10
    「しかし、擬似科学批判が意図していることがそれでよいのか」良いんじゃないの?それ以上が必要なら自分でやるかそれが必要であることを他の人も納得できるように書くか。
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