歌舞伎と江戸と食を愛する人であれば、絶対に外せない本である。味付けはあっさりと「山の幸」と「海の幸」の2章のみだ。底本としているのは3代目中村仲蔵の『手前味噌』という自伝である。文化6年(1809)生まれ、明治19年(1886)没の仲蔵は「食乱」を自認した大芝居(幕府公認の劇場)の名優だった。本書はその江戸の大スターにレポーターとなってもらい、様々な江戸グルメを案内してもらうとい趣向なのだ。納豆汁、鰻、とろろ汁、トコロテン、伊勢海老、天ぷらなど小見出しは40本。それぞれに滋味がある。歌舞伎と江戸と食のかき混ぜ具合が絶妙なのである。たとえば「鶴」という一篇を見てみよう。 文政12年20歳の仲蔵は上方に向かった。上方で稼ごうと思ったからである。この年3月に江戸三座が焼けて出番がなくなったのと、女郎に馴染んで借金が返せなくなったからだ。その女郎とは松井町の「お半」、弁天の「おむら」、吉原の「若緑