日経ビジネスが先週「東電の罪と罰」という特集を組んでくれたのでよく分かったことだが、東電の歴史をみると、情報の隠匿が次第に日常化していった歴史であるという事がよく分かる。最初の内部資料の改竄はアメリカから指摘を受けて発覚、歴代の実力会長にまで累が及ぶ大事件になったわけだが、次の発覚に際しては殆どお咎めがなく、その間、多くの内部告発も殆どが握りつぶされている。 これは「東電の政治工作が効を奏した」と言うより、初めから国の安全委員会とか保安院とかが東電と一体となって一つの方向性を決め、「民は知らしむべからず、依らしむべし」という方針に徹してきたと言うべきだろう。一旦そう決めれば、もはや真実などはどうでもよくなるのだから、そのうちに感覚が麻痺してくるのは当然だ。 「民は知らしむべからず」などという考えは、そもそも現在の日本では絶対に認められてはない事だが、今回は、これが「原発事故」という国民の安