明治45年1月14日、日本陸軍と地元の関係町村長との間で、「富士裾野演習場使用協定」が結ばれ、富士裾野演習場が常設されることになりました。 当時の演習地は、現在の東富士演習場の場合と異なり、軍民供用の時代であって、実弾銃砲演習実施の場所と時間を除いては、一般に地元住民の立入りは自由であり、演習場内の耕作や採草・採木及び山林の植栽・撫育などが盛んに行われていました。 昭和20年8月15日の終戦に伴い、同月23日に富士裾野演習場使用協定は解除となり、富士裾野演習場は廃止されました。 その後、食糧増産のため、一部開拓事業が進められましたが、着手後まもなく、占領進駐を目的とするG・H・Q(連合国軍)の指令により、昭和21年の春に休止となっています。 昭和22年5月には、連合国軍が富士裾野演習場跡地に進駐し、東富士演習場が設置されました。