●久しぶりになじみの古書店を訪ね、ペラものやパンフレットの入った棚をあさっていたら、ふと目に留まったものがありました。古びた薄い紙の表裏が、かすれ気味の印字でびっしりと埋まっているもの。用紙、印刷とも、あまり質のよくなさそうな雰囲気に、妙に惹かれるものがあったのでした。 ●「鉄道小荷物並滊船馬車發着賃金表」 172×248㎜、二ツ折表裏刷。 【▼「続きを読む」をクリックしてご覧ください】 ●最初に「滊車發車時刻表」の大きな字が目に入ったので、そのたぐいであることはわかりましたが、「時刻表」の名とはうらはらに、ろくに表組みもなされていない文字の羅列で、一見したところでは、どちらが表裏かもわかりません。 もっともよく見てみると、両端下に漢数字で一~四のノンブルが打たれており、「鉄道小荷物並滊船馬車發着賃金表」のタイトルがあるところを背に、二ツ折にして使うものだと理解できました。 ●「滊船」とあ
本行徳の旧江戸川河畔に常夜燈(右の写真:1999年5月撮影)が建つ場所は、かつて江戸時代から明治時代にかけて行徳と江戸を結んだ航路の船着き場の跡とされています。 この場所は昔の船着き場としてしばしば取り上げられますが、ここが航路の一方の起点であり終点であるなら、もう一方の起点/終点とは一体どのような場所だったのでしょう。これまで、あまり取り上げられたのを見たことがありません。そこで、かつての行徳~江戸を結んだ行徳船の江戸側の終点-日本橋行徳河岸を探してみることにしました。(「行徳河岸」という名前は、行徳への船の発着場所という意味です。) ■日本橋行徳河岸はどこか? 行徳と江戸を結んだ航路は下の地図のようになります。 本行徳の船着き場を発った船は、江戸川(現-旧江戸川)を下り、今も東西線の鉄橋から見える妙見島の手前で、新川に入ります。この新川で現在の江戸川区を横断すると中川(現在の旧中川-こ
●河川工學 (アルス土木工學大講座 11) 宮本武之輔著(工学博士・内務技師) アルス 上製 430ページ 昭和11年9月19日 第一刷 ●川蒸気から始まって、水運とその周辺に趣味として関心を持ってきたわけですが、ネットが発達する以前は、一般向けの情報が極めて乏しい世界であったわけです。それこそ、その道のプロがひもとくような、難しい専門書から、ピンとくる部分を拾い集めて回るより、方法がありませんでした。今思うと、何とももどかしいことをしていたものですが、渇えていただけに、目指すものが見つかったときの喜びもまた、大きかったものです。 【▼「続きを読む」をクリックしてご覧ください】 ●この「河川工学」(上の写真は背表紙を撮ったそれに、扉ページをペーストしたもの)もその一つで、出会ったのはもう、だいぶ前になります。 古書店の店頭で、「河川」の文字だけで反射的に手に取り、難しそうなページはすっ飛ば
●8月17日は、前日の天気予報では終日快晴と出ていたものの、明けてみると果たして、分厚い曇り空。「なあに、これも朝凪のうちで、間なしに晴れるだろう」とマリーナに到着してみると、まあ、見慣れた煙突までが先端を雲に隠してしまうほど。もはや霧といってよいくらい。 猛暑続きの中で珍しく、夜間に24℃くらいまで気温が急降下したせいでしょう。夏の涼しい朝、無風時に視程が急速に悪化するというのは、湾奥ではよくあることですが、出くわしたのは久しぶりとあって、そりゃもう、やる気の萎えることったらありません。 ●とはいえ、雨は降らなそうだし、風が出れば青空ものぞくであろうと、気を取り直して出港。空同様、心晴れぬ気持ちを抱えながら、まずは曙北運河へ。 イグアナクレーンが睥睨する、汐見運河との丁字流近く、越中島線の鈑桁橋をまずは一枚。ガスるほどの無風のおかげで、水面はぬめったように平らかですが、何分この薄暗さでは
東京・渋谷駅周辺の再開発に伴い、2014年春、渋谷駅東口駅前広場の地下を北から南に流れる「渋谷川」の暗渠(あんきょ)が半世紀ぶりに地上に姿を現した。かつて渋谷川に流れ込んでいた支川は、唱歌「春の小川」のモデルともいわれる。再開発によって、現在はほとんど水がなく干上がった渋谷川に清流を復活させ、川沿いに新たな水辺空間を創出する。渋谷川は、JR渋谷駅のすぐ東側を"最上流"とする長さ約2kmの二級河
暗渠/川跡/川 « 前のページ次のページ » 元麻布・麻布十番に潜む川跡と湧水をたどる April 28, 2011 Tweet 今回は、元麻布から麻布十番にかけて流れ渋谷川(古川)に注いでいた小川の痕跡を辿ってみよう。かつてこの川には現在の六本木ヒルズ近辺や芋洗坂方面からの流れも注いでおり、吉野川とも赤羽川とも呼ばれていたという。出発地点は港区元麻布2丁目。有名な「がま池」の北側にぽっかりと窪んだ谷が続いている。明治時代初期の地形図を見ると、がま池からこの谷に向かって細い流れが続いている。つまり、「がま池」がこの川の源流のひとつということになる。がま池のほうから谷底に下っていく道の途中からの景色は、谷底に密集する住宅越しに六本木ヒルズや周囲のビルが聳え立ち、なかなかに不思議な光景だ。 谷底の一角は宮村児童遊園となっている。公園の名前は近辺の旧町名「麻布宮村町」に由来する。東側の崖下にはわ
入間川(いるまがわ)は、埼玉県を流れる荒川水系の一級河川である。上流部は名栗川(なぐりがわ)とも呼ばれる[2][3]。荒川の支流としては最長である。川越市古谷付近で荒川に合流する。 江戸時代の頃は、舟運が江戸の市中まで通じた。 地理[編集] 標高1,294 mの大持山の南東斜面に源を発し[4]、飯能市、入間市、狭山市を流れ、その間に成木川、霞川、越辺川などの支流を合わせ、さいたま市と川越市の境界付近の川越市大字古谷本郷で荒川に合流する。 豊水橋から初雁橋間の左岸、および初雁橋から入間大橋間の右岸に自転車道(22.6 km)が整備されている。 名称[編集] 飯能河原の先、岩根橋より上流[2][3]の旧名栗村の地域では名栗川と呼ばれているが、埼玉県では「入間川(清流 名栗川)」としている。さらに名栗の「名郷(なごう)」集落より上流の源流域では、横倉入(よこくらいり)(別名:ナギノ入)と呼ばれて
>鹿島あたりは神社つながりで藤原氏ですね。神主出身の藤原(中臣)氏は >鹿島神宮や香取神宮(こちらは下総)なんかと関係があったらしい。 鹿島神社や香取神宮は彼方此方に存在しますね。何れも関連が在るのでしょうか? 藤原氏繋がりとなると、平将門と藤原純友の仲も何か必然めいて来るのかな? >利根川の向うは茨城県になっちゃったけどね。 現在の利根川は、江戸開幕後に現在の江戸川の放水路として新規に開削されたと 聞いた事が在ります。となると、関宿の分流点から常磐道橋梁付近の鬼怒川との 合流点迄が該当するのかな? そう考えると、下総国が茨城県域に及んだ必然性も 理解出来るのですが。又、佐原付近で県境が利根川本流から北に外れて居るのは、 横利根川-常陸利根川が曽て本流だった為でしょうか?(この辺、小学校の郷土 学習で齧った筈ですが、どうしても思い出せない。) > 鹿島神社や香取神宮は彼方此方に存在しますね
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