2014年09月13日11:32 カテゴリメディア 朝日新聞の「贖罪史観」は営業と出世の道具 朝日新聞のデータベースを検索すると、「慰安婦」は7419件、「慰安婦 強制連行」でも1046件も出てくる。しかも大阪本社に集中しているのが特徴だ。大阪には在日が多いので、彼らに同情する記事を書くことがセールスの武器になった。拡販の対象は専業主婦が多いから、北畠清泰(大阪本社論説委員)が中心になった「女たちの太平洋戦争」シリーズは、部数拡大に大きく貢献しただろう。 その記事は、戦争のとき子供だった女性の(真偽不明の)手紙で構成されている。たとえば1991年7月24日の「2度まで売られた私」という記事は、こんな調子だ。それならもう一度、父や弟のために働いて孝行を尽くして上げようと思いました。込み上げる涙を隠し、沖縄の女性21人と一緒にサイパン島に渡りました。昭和14年(1939)4月3日の出来ごとです
1979年4月。新幹線もなかった時代だったから、信越線で上野駅から長野駅に向かった。朝日新聞長野支局(現在は総局と言う)に赴任するためだ。新聞記者としての生活が始まるかと思うと、胸がドキドキした記憶がいまも残っている。 警察署を回って交通事故の記事などを書いた。統一地方選の開票日は、県庁で投票結果が発表されるたびにコピーを支局に運ぶという仕事を明け方まで続けた。善光寺が火事になって写真を撮りに現場に走った。翌日、ネクタイが焦げていることが分かり、肝を冷やした。先輩からいつも言われたのは「事実と正直に向き合え」だった。 地元紙の先輩からは「新聞記者の仕事は、事実を集めて権力の内側を描くことだ」と説教された。彼は、転勤の時に長野駅まで見送りに来てくれた。「おまえは東京で頑張れ。ただし、あまり意気込むな。俺は信州で書き続ける」が、送別の言葉だった。 政治記者になったのが85年。中曽根康弘政権の時
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く