日本では長く新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督を務めてきたので、小澤さんを頻繁に聴いているクラシック音楽ファンは少なくないはずだが、僕にとって小澤征爾は好んで聴くアーティストではないため、彼の指揮姿を生で拝んだのは数限りがある。むしろ、それゆえに、僕にとって記憶の底にとどまっているいくつかの小澤さんの姿がある。 おそらく最初に小澤さんを聴いたのはパリのオペラ座。1982年の春のことだ。演目は『トスカ』。お金がなかった僕は一番安い席を買ったら、もっとも舞台際のオーケストラボックスの横にあるボックスの一番後ろの列だった。狭いボックス、最後尾の背の高いスツールに座ると、舞台は全体の4分の1見えるか、見えないか。舞台で何が起こっているのか、さっぱり分からない。その代わり、オーケストラボックスは丸見えで、指揮を執る小澤さんの顔と姿がはっきりと見えた。 『コンサートは始まる』でも記述されていると