新潟の実家は映画館を経営し、幼少時から映写室にあるディズニーのフィルムを一コマずつ見て動きを研究していたという[1]。小学校の頃から漫画家の手塚治虫と文通するという早熟さで、1958年(昭和33年)に高校を卒業すると上京して手塚のアシスタントとなる。翌1959年(昭和34年)に手塚は東映動画でアニメ映画『西遊記』の製作に参加したが、途中から多忙な自身の代わりに月岡と石森章太郎(後の石ノ森)を助手として東映動画へ派遣した。この現場で月岡は東映動画への入社を希望し、東映動画スタッフの白川大作が身元保証を引き受けてアニメーターとして入社した[2]。 月岡の作画スピードとうまさはすぐに社内で注目を浴び、「天才アニメーター」が月岡の代名詞となった。入社してからも引き続き担当した『西遊記』では動画のクレジットながら、実際には原画も任され[3]、大塚康生によると牛魔王が三蔵法師たちを捕らえて宴を繰り広げ