「何で次から次へと日程を入れて総理を休ませないんだ!疲れ切っているのに!」「いくら言っても聞かないんです。本人が休もうとしないんです。先生からも説得して下さい!」私と総理秘書官とのやり取りです。色々なお叱りはあります。しかし側で見る限り総理は間違いなく懸命に取り組んでいます。
![甘利 明 on Twitter: "「何で次から次へと日程を入れて総理を休ませないんだ!疲れ切っているのに!」「いくら言っても聞かないんです。本人が休もうとしないんです。先生からも説得して下さい!」私と総理秘書官とのやり取りです。色々なお叱りはあります。しかし側で見る限り総理は間違いなく懸命に取り組んでいます。"](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/a444f3723be0084f6494a3195cf1ac1e95645998/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fpbs.twimg.com%2Fprofile_images%2F1466240436461207556%2FuOPc4Ua0.jpg)
「何で次から次へと日程を入れて総理を休ませないんだ!疲れ切っているのに!」「いくら言っても聞かないんです。本人が休もうとしないんです。先生からも説得して下さい!」私と総理秘書官とのやり取りです。色々なお叱りはあります。しかし側で見る限り総理は間違いなく懸命に取り組んでいます。
小野田少尉は1974年3月9日、やっと自らの剣を引き渡した。29年間、フィリピンのジャングルで持ちこたえた。日本に帰国後のインタビューや手記では、日本が降伏したことを受け入れられなかったと述べた。 部外者には小野田は狂信者に見えた。しかし帝国時代の日本では、彼の行動は完全に理にかなっていた。小野田は決して投降せず、天皇のために死ぬと誓っていた。女性を含めた他の国民も全員、同じ事をするはずだと彼は信じていた。 だがもちろん、そんなことはなかった。1945年8月15日、日本の最高神である裕仁天皇は、天皇として前例がなかったことをした。ラジオに現れたのだ。原子爆弾が広島と長崎を破壊していた。2つ目の原爆が投下された日、ヨシフ・スターリンが日本に宣戦布告した。ソビエト連邦軍はすでに、満州を席巻していた。数週間以内に、ソ連軍は北海道に上陸するとみられた。裕仁はアメリカへの降伏が最善の選択だと受け入れ
<アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは>より続く 父島関係で出廷した証人は堀江少佐ら40人。捕虜を斬殺した1人の伊藤喜久二中佐は「I中佐」として証言要旨が「小笠原兵団の最後」に載っている。 「肝を食い、必勝の信念の養成に処すべし」 「硫黄島の上陸前夜、2名の捕虜が届けられた。(立花)少将はこの捕虜に猛然と襲いかかった。真鍮のステッキで胴腹に2つずつ打撃を与え、高級副官H(東木誠治大尉)に命じ、司令部前の松の木を背にして針金で首から足まで縛らせ、『この畜生めらが戦友を殺したのだ、見せしめに殴れ、蹴れ、そして憎め』とどなり散らした」「2、3日、捕虜は生きていた。Tは将校の会食で試し切りの希望者はないか、剣のすごみを披露するチャンスだと言った。副官のH大尉が『中佐殿、あなたは剣豪です。閣下の命令です』と言うので、不承不承このIが切ることになった。第3
アメリカに起きている変化 なぜ、アメリカは原爆を投下したのか? そう問われたら、アメリカ人の多くはこう答えるだろう。 「ハリー・トルーマンが原爆を投下したのは、できるだけ早く戦争を終わらせ、日本本土侵攻により、100万人もの米兵の命を犠牲にしたくなかったからだ」 原爆は戦争を早期に終結させるのに必要だった。アメリカ人はハイスクールの歴史の授業で「原爆投下の正当性」をそう教えられてきた。 元大統領補佐官のジョン・ボルトン氏も、オバマ元大統領が2016年5月に広島を訪問した際、フォックスニュースのインタビューで「原爆投下の正当性」を主張している。 「トルーマンがしたこと(原爆投下)は、私からしてみれば、軍事的に正しかっただけではなく、道徳的にも正しかったのです」 しかし、アメリカでは常識となっているそんな歴史に“NO” を叩きつけるような「戦争を終結させるのに原爆は必要なかった論」を米紙ロサン
前年12月から日本軍によるアジア全域での残虐行為の立証が集中的に進められ、年明けからは捕虜虐待事件が広範に取り上げられていた。「父島事件」もその1つだったようだ。記事の見出しは「會(会)食に米飛行士の人肉試食 的場少佐の『父島の残虐』尋問書」。的場少佐とは、父島駐屯の独立混成第一旅団に所属する独立歩兵第308大隊長・的場末勇陸軍少佐のことだ。 記事の見出しには「人肉試食」とある 1947年1月14日東京朝日新聞より 問 同島(小笠原父島)最初の人肉試食事件は? 答(=的場末勇陸軍少佐) 昭和20(1945)年2月23日、米飛行士処刑の報告を橘将軍(陸軍少将)に行った際、私のための宴会で初めて飛行士の人肉が試食された。それは、橘将軍が第307大隊司令部に電話で甘藷(イモ)酒1斗と肉を届けるよう命じた。肉は加藤大佐の部屋で料理された 問 人肉であることを知っていたか? 答 そうだ 問 どのくら
それは、「71年目の死亡通知」だった。 2016年6月のこと、岩手県保健福祉部から突然、大きな茶封筒が送られてきた。開けてみると、厚生労働省からの「お知らせ」で、ロシア政府から提供されたシベリア抑留者に関する資料と日本側の保管資料を照合した結果、父親(増子浩一)のものと思われる資料が確認されたという前置きがあって、こう記されていた。 1.埋葬地 プリモルスク地方(沿海地方) 第4865特別軍病院・第1墓地 2.氏名 マスノ コイチ 3.生年月日及び階級 明治40年 兵 4.死亡年月日 昭和20年12月30日 そのうえ、驚いたことに、「お知らせ」には、ロシア語の資料の写しと、日本語に翻訳した「死亡証書」と「埋葬証書」まで添えられていた。 遺骨代わりの木片が入った骨箱を渡され、幼いころから父の戒名と没年が刻まれただけのからっぽの墓石に手を合わせてきた私にとって、それは初めて知る父の死についての
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く