朝鮮の役のとき、自分不在のあいだ秀吉が手を出すかもしれない、との危惧から、その際は辱めを受けぬよう奥方にあらかじめ自害を促し出征した大名もいたくらいに秀吉は女好きでした。ほどなく亡くなりますが、その死因も「腎水(精液)」の使い過ぎとの噂が流れたほどでした。「衆道」はこの時代珍しくもない習俗で、信長も家康も信玄もその嗜みがあったことは周知の通りですが、中には生涯独身を通した謙信のごとき「剛の者」もいました。秀吉の男色傾向の無さを訝しんだ家臣らがある時、男好きなら到底放ってはおかないくらいの家中評判の「美少年」を呼び入れ、太閤殿下の御前で二人きりの時間をもたせます。殿下の食指はいかに、というわけですが出て来た美少年いわく「そちに姉か妹はおらぬのか、との仰せ」だったそうで、少年には指一本触れなかったとのことです。いかに秀吉が女性に対してのみ好色であったかを如実に語るエピソードではないでしょうか。