元々貧乏な生活してささやかな貯金をするのが趣味だった。 今配偶者がなおるあてのない長く療養が必要な重い病気になって貯金を切り崩す生活をしてて、使える制度をフルに使っても100万円しかない貯金が毎月10万円ずつ減ってるの見てるけど、配偶者が重い病気で怖いとか悲しいより、このお金が無くなるという方が正直ストレスに感じてる。 薄情なやつだな、と思うけど、そんなことを悟られないようにして最期まで面倒みるから、許して欲しい。 実家、新築の家を昔ローンで買ってたけど、今年55歳の父親が1500万の残債がどうにもならなくて売りに出すって。でも、私あの家にそんな価値ないって知ってる。猫が柱をがちゃがちゃにして、あらゆるところの掃除をマメにしていたわけでないから汚れが酷くて立地が酷い。だからきっとそんな値段では売れない。父親と母親は熟年離婚した。母親も貧乏な生活してる。父親も母親も高卒で、両親はわたしを含め
ひさしぶりに、「物乞い」という言葉をきいた。夢使いに対する、一般的な罵倒だ。その昔、夢使いの多くが放浪し、一宿一飯の礼に香音を鳴らした。だんだんに定住するものが増えた今、わたしのように副業とするほうが多いだろう。今ではちゃんと組合さえあるというのに、物珍しさと異なる能力への反撥ゆえか、差別は色濃くあるようだ。 それでも、数十年前までは、夢使いはもっと生きやすかったそうだ。力のある夢使いは尊崇をあつめ、御殿のような家に住むものもあったと聞く。もちろん、夢使いは公職につくことはできないし、当時から差別するひともいた。けれど、道化のように思われてはいなかったはずだ。 田舎よりこの街の相場はずっと高いが、要領の悪いわたしはただ働きのことも多い。実をいえば、わたしに話すことをやめてしまったひとたち――おのれの夢を他者に明かすことを恥じ、恐れ、忌避しようとしたひとたち――に、彼らの「夢」を届けていた。
1979年10月、独裁体制を敷いた韓国・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が暗殺され、16年に渡る支配が突如、終焉を迎えた。これで時代が変わるだろうと、民主化を求める市民たちは湧き立つ。ところが、ほどなくして全斗煥(チョン・ドゥファン)らがクーデターを起こし、軍部独裁体制は維持された。1980年5月、光州では、抗議の声をあげる市民たちが、軍による激しい弾圧を受けた。この「光州事件」(5.18民主化運動)は往々にして「男性たちの物語」として語られるが、女性たちの役割はただ「後方支援」や「補助」だったのだろうか。軍事政権と家父長制の狭間で光が当てられてこなかったものとは何か? 現地取材を通して探る。 梅雨明け間際の空は昼間でもやや薄暗く、吹き抜ける風はどこか雨の香りを宿していた。ビルの8階まで昇ると、カフェの併設された開放的な空間が広がっている。大きな窓からは、光州の中心地から彼方の山の稜線までが
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