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  • 肥後細川藩・拾遺:細川忠興の晩年とその後の八代

    細川忠興の晩年とその後の八代 ● 忠興の晩年・その1 元和2年(1616)豊前小倉生まれの寿院養清教円(杉院)という当山派の山伏が、豊前中津城から肥後八代城へと移られた三斎公にしたがって肥後に移り住み、三斎公の死の18年後、切腹後蘇生し、時の八代城主長岡(松井)佐渡寄之を90日間呪詛して死にます。現在は八代市荒神町に権現堂として、また芦北郡芦北町に西龍神社として祀られています。 八代市袋町にある現在の医王寺は、当初は長丁にあって、三斎公が城の祈祷寺として寿院に再建させて、その住職にしたところでしたが、杉院(寿院)の切腹後、時の城主長岡寄之から没収破却され、杉院の死の二年後、寄之夫人によって現在地に再建されたものです。 現在の医王寺堂には、長岡家(松井家)代々の位牌の前に、杉院の位牌が置かれています。またその棟札には養清坊の怨念消滅の文字が刻まれています。(棟札写真後掲) 晩

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    florentine
    florentine 2015/10/31
     細川ガラシャ夫人の生害を伝える「霜女覚書」 「秀林院様御はて被成候次第事」
  • 肥後細川藩・拾遺:

  • 肥後細川藩・拾遺:

    -1/4- 「御家草創」松井佐渡守康之・長岡佐渡守興長 松井家文書・先祖由来附、御給人先祖附を読んで 御池章史(熊県八代市) はじめに 近世松井家初代松井佐渡守康之は、天文十九年十一月一日松井山城守正之と荒川治部大 輔澄宣の娘のもとに誕生します。幼少の頃から室町将軍足利義輝の傍らに兄とともに仕えてい ました。ところが、永禄八年足利義輝は松永久秀に弑されてしまいます。 康之の兄新次郎勝之は、義輝の下に討死します。 康之は義輝の弟奈良興福寺一乗院覚慶(足利義昭)を助け出して、将軍擁立を謀っている細 川藤孝と行動を共にするため、近江矢島に足利義昭を訪ねます。以後、足利義昭に従い、若狭 武田氏や越前朝倉氏を頼って足利家再興を図りますが、目的を果たせません。 結局足利義昭は、細川藤孝や明智光秀の努力によって、織田信長に担がれて上洛、将軍職 に就くことができます。 永禄十一年、足利義昭が越前朝倉に見

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    florentine
    florentine 2015/04/15
    「肥後古流」も又武士の茶である。茶室に帯刀は許されない事であるが、熊本の武士の左腰は刀を差す為の場所であり、袱紗を左腰につけることはしない」「挨拶の所作も軽く握ったこぶしを両膝脇の少し前に置き低頭す」
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