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-1/4- 「御家草創」松井佐渡守康之・長岡佐渡守興長 松井家文書・先祖由来附、御給人先祖附を読んで 御... -1/4- 「御家草創」松井佐渡守康之・長岡佐渡守興長 松井家文書・先祖由来附、御給人先祖附を読んで 御池章史(熊本県八代市) はじめに 近世松井家初代松井佐渡守康之は、天文十九年十一月一日松井山城守正之と荒川治部大 輔澄宣の娘のもとに誕生します。幼少の頃から室町将軍足利義輝の傍らに兄とともに仕えてい ました。ところが、永禄八年足利義輝は松永久秀に弑されてしまいます。 康之の兄新次郎勝之は、義輝の下に討死します。 康之は義輝の弟奈良興福寺一乗院覚慶(足利義昭)を助け出して、将軍擁立を謀っている細 川藤孝と行動を共にするため、近江矢島に足利義昭を訪ねます。以後、足利義昭に従い、若狭 武田氏や越前朝倉氏を頼って足利家再興を図りますが、目的を果たせません。 結局足利義昭は、細川藤孝や明智光秀の努力によって、織田信長に担がれて上洛、将軍職 に就くことができます。 永禄十一年、足利義昭が越前朝倉に見