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ブックマーク / plusminusx3.hatenadiary.org (25)

  • 数寄屋図解事典18 - なにがし庵日記

    てんゆうあん(天祐庵) 東京浅草寺境内伝法院にある茶室。 この茶室はもと名古屋の牧野作兵衛が天明の頃(1774-1788)造営された表千家不審庵写しの席であったが、大正5年(1916)高橋箒庵の勧めで東京向島の徳川邸内に移されて嬉森庵と呼ばれていた。 その後津村邸内に移築し、大正12年(1923)の大震災に免れたというので箒庵が改めて天祐庵と名づけ、また今回の戦災にも免れた席で、不審庵写しの席としては最古のもので昭和33年現在の地に移築された。 浅草の水戸徳川家→目黒区青葉台のツムラ邸→浅草寺という来歴。 牧野作兵衛が最初どこに建てたかは不明。 http://www.senso-ji.jp/guide/denbouin.html 非公開だが、たまに公開しているらしい。 浅草の徳川邸にあったら間違いなく大震災で焼失していたんだから、ラッキーな茶室である。 とうようぼう(東陽坊) 京都建仁寺方

    数寄屋図解事典18 - なにがし庵日記
    florentine
    florentine 2017/02/04
    「この茶室はもと名古屋の牧野作兵衛が天明の頃(1774-1788)造営された表千家不審庵写しの席であったが、大正5年(1916)高橋箒庵の勧めで東京向島の徳川邸内に移されて嬉森庵と呼ばれていた」
  • 数寄屋図解事典29 - なにがし庵日記

    やまとうち(大和打ち) 板を交互に表と裏から横貫または胴縁に打付ける工法をいう。この形式でつくった戸を「大和打の戸」という。 これか。 https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E6%89%93%E3%81%A1-649407 良く見るけどそういう名とは知らなんだ。 でもなんで「大和打ち」なんだろう。語源が知りたいなぁ。 やまとがき(大和掻) 下地窓などの下地の一部に竹に藤蔓を纏うことをいう。 大和は両方から掻くことで、片大和は一方から掻くことである。 この掻くという意味は、鳥が巣をかけるところから転じたものといわれている。 あの下地窓の竹に巻いてある蔓は、そういう名があったのか。 でも大和と片大和がどう違うのか、さっぱりわからんな。 「両方」は壁の両側を指すのか竹の左右を指すのだろうか? あとこっちの「大和」とも一つ上の「大和」に関連性は

    数寄屋図解事典29 - なにがし庵日記
    florentine
    florentine 2017/02/04
    「やまのちゃりょう(山の茶寮) 天正年中に豊臣秀吉が大阪城を築城の際、外濠近くの丘(大阪市夕陽丘付近)に建てられた茶寮で、伝説では加藤清正の構想になるものといわれ」 初耳だけど面白そう
  • 茶道文化論集31 箱崎松原の茶会 - なにがし庵日記

    天正十五年正月、関白秀吉は宇喜多秀家を名代とし、弟の豊臣秀長に十五万の将兵を授けて九州遠征に先発したが、越えて三月一日、自ら十万(呼号の数字)の軍を率いて大坂城を出発した。 (略) 秀吉は箱崎に腰を据え、随行した利休や宗及の茶をたのしみ、また将士や町人らにこれをふるまった。 ということで利休の九州行に関して。 九州で利休と言えば、南坊録のいう箱崎松原ふすべの茶…野点のはじまり、という奴だと思うが: 幽斎は、この北九州の旅に麗筆をふるい、『九州道の記』という紀行をのこした。 (略) 関白殿、箱崎の松原にすヽまるべきよし有て、各召具せられて、しばし御遊興の事あり、おほみき(大神酒)まいり、謡ども有りて 南坊録以外に、それなりの状況証拠はあったわけか…。 ただ: この八日に宗湛は箱崎に参上して秀吉に御目見し、前述のように博多の復興に尽力するよう命ぜられた。そして同十三日、宗及の茶会、翌十四日に利

    茶道文化論集31 箱崎松原の茶会 - なにがし庵日記
  • 閑夜茶話14 千家 - なにがし庵日記

    千家関係のエピソード。 一 柳生但馬守石州の點茶を見て扨々御手前驚入候、中々左樣には參らぬもの。 少も透間無之と稱美せりとなり。 一説には遠州とも又宗旦とも云へり。 是は宗旦なるべし。 清正VS利休のパターンもありますが…。 そーだよなー。こーゆー話は武士武士相手にしたら、タマの取り合いに発展し兼ねませんわな。 一 千宗旦は懐石は四客のものなりと云ふ。 或人懐石は五人前あるはいかにと尋ねしに、其一人前は亭主相伴の為めなりと答へしとなり。宗旦の見識かくあるべき事殊勝なり。 そんな凄い話かなぁ…とりあえず懐石の器が五人セットなのは昔からだというのは判った。 一 原叟宗左朝顔茶湯とて常の居間を葭屏風にて圍ひそれへ花入を掛け朝顔を生けたり。利休とは體かはりて一興ありけるとぞ。 朝顔のシーズンは夏だから、囲いで風炉でも いいわけか…。 これって朝顔の風情が良かったというより、もはや囲いが物珍しかっ

    閑夜茶話14 千家 - なにがし庵日記
  • 閑夜茶話3 千利休 - なにがし庵日記

    利休の生涯。 紹鴎は宗易が茶事に達したる由、信長公に薦めければ、則五百石を賜はりぬ。 元龜年中、宗易は正親町院の勅命に依て茶器七品を献ぜしが、兼て法印法眼にも相成べきとの事なれども、休之を願はず。居士號の望みありければ、此時勅命にて利休宗易居士と稱すべきを許さる。 是に於て、中世茶事の祖とす。 後秀吉公に仕へ、三千石を領し、氏を千と改め、當時の大小名諸役人門人にあらずと云ふ事なし。 元亀年間に朝廷に出入りしている、というパターンだと、信長に居士号を世話してもらっている事になる。 更に、利休が千という姓をもらったのは、秀吉に仕えてから。 つまり、参内した時点では田中宗易で、参内後田中利休、秀吉により千利休になった、というわけか…なんだかなぁ。 又古渓和尚と交り深く後弟子となり禪を學びぬ。 後己が木像を作り拂子をもたせて大徳寺金毛閣に置き、抛筌斎利休居士と號せしを、秀吉公聞て大に怒り、彼れ茶事

    閑夜茶話3 千利休 - なにがし庵日記
  • 閑夜茶話12 三齋 - なにがし庵日記

    細川三齋は利休の弟子なり 或時京都より伏見へ利休を迎へに參られ候 折節途中より雨降り候へば俄に我乗物に利休を載せて、三齋は供にて歸られ候と申傳ふ 師弟の仲かくもありたき事なり …雨が降って来なかったら利休が歩きで、三斎は駕篭のままだったわけか。 それで「師弟の仲かくもありたき事なり」なのね…この辺の身分制内での機微はもはや理解し難い所。 少なくとも徳川幕府の体制側もいいとこにいた直弼には、非常に納得の行くほっこりしたものだったようだ。 茶湯の半にて客據なく退出致すべき時は亭主心得て早く釜の蓋〆る事故實なり。 三齋翁吉田にて松氏東武へ發足出立の茶事に何れもは咄されよ松氏は立ちめされよ、いざ釜の蓋しむるぞとて、三齋翁釜の蓋〆られしとなり。 これは席を立つ人が巻き上げた埃が釜に入らない様にする為なのではなかろうか? でもその場合、水指の蓋はどうしたのだろう? 言及されないということは、水指の

    閑夜茶話12 三齋 - なにがし庵日記
    florentine
    florentine 2015/12/07
    「細川三齋は利休の弟子なり 或時京都より伏見へ利休を迎へに參られ候 折節途中より雨降り候へば俄に我乗物に利休を載せて、三齋は供にて歸られ候と申傳ふ 師弟の仲かくもありたき事なり」
  • 茶道規範76 要録 拝見 - なにがし庵日記

    要録もこれで最後。 第二十一 諸道具見物之事 主點茶ヲ勤テ釜ニ水ヲ指シ水壺ノ蓋ヲスル時茶盛ヲ可請 茶入の拝見を乞うタイミングは水指の蓋を閉めたとき。 現代と一緒で安心する。 見ヤウ茶入ノ際ヘ寄リ先ヅ主ノ出シタル表ヲ能ク見覺ヘ両臂ヲ疊ニ付ケ右手ニテ茶入ヲ取リ左手ヘ移シ少シ退去 茶入ノ總冠*1合ヲ見物シ扨蓋ヲ取見テ疊ノ縁ヘ掛ケ下ニ置キ茶入ノ口作リ肩ノ躰茶ノ殘リタル程ヲ見テ蓋ヲメ少シ傾ケ底土作リヲモ見ベシ 高ク揚テ不可見 扨茶入ノ表ノ方ヲ人前ニナシテ下ニ置キ次ヘ渡ス也 これまた現代と変らない拝見の様子。 牙蓋を畳縁に預けるのは、足で踏まない場所だからだろう。 ちょっと気になるのは「茶の残りたる程を見て」の部分。 茶が残る事が前提と言う事は、廻し出ししなかったんだろうか? 人数分きっちりのお茶が入っている事が大前提の現代では考えにくい。 ただ、余裕をもってたっぷり入れるのが小壷である、と言われれば

    茶道規範76 要録 拝見 - なにがし庵日記
    florentine
    florentine 2015/10/27
    「茶入の拝見を乞うタイミングは水指の蓋を閉めたとき。 現代と一緒で安心する」ほんとだよ・・・
  • 茶道規範62 要録 数寄 - なにがし庵日記

    一 數奇之事字書曰一者奇也二者偶也ト注ス 数奇の字は字書では一は奇、二は偶と注される ということで、数寄という言葉から。 数寄でなく数奇であるのが面白い。 (略) 李廣傳云太将軍陰受上誡以為李廣老數奇也母令當單于 奇数の定義は省く。 史記の李広伝に「大将軍(衛青)もまた皇帝の内意で縛られていた。李広は老いて数奇(占いの結果が悪い)である。単于と戦うな」とある。 按ニ單于者匈奴ト云テ北狄主ナリ 是數奇ノ字義ノ解ナリ 単于は匈奴の王である。 これが数奇の意味の答えである。 世ノ富賑トソウ*1々タルヲ遁テ寒素ニメ聚螢映雪貧乏ヲ樂ミ山居シテ遣世慮者世俗ノ眼ヨリ見時ハ誠ニ人タル數ノ餘零數奇者ト云フベシ 數奇屋ト云モ是以推テ知ベシ。 世の中の賑わいから逃れて、貧乏を楽しむ者は世間から見れば余り者である。 これを数奇者という。 数寄屋というのもこれをもって推し測れや。 茶道ハ侘ヲトス 故ニ茶具一色ヲ數

    茶道規範62 要録 数寄 - なにがし庵日記
  • 茶道規範64 要録 季節感 - なにがし庵日記

    宗偏の語る季節感は風炉と炉、あと花ぐらいに限られる。 だが。 夏冬ノ時節ニ不限爐風爐ヲ用ユル事當流ノ事也 原則論としては、宗偏の茶の湯では、季節と炉風炉は関係がなかった。 然リト云共炎天ノ時分甚ダ涼キトテ爐ヲ用ニハ非也 とはいえ、夏にちょっと涼しい日だからといって炉はどっかなー?という常識はあった模様。 多クハ寒天ノ温カナル時風爐ニ擧ル事アリ 是ハ茶主ノ氣轉ナルニ因テ兼テ難測 小春日和の日に、「あったかいナリー風炉にするナリー」みたいな事はありえる。 でもこれって主人の気まぐれなんで推測不能。 此故ニ廬地ヘ入ト其儘先厠見戸開テアラバ必ズ風爐タルベシ そーゆー時はトイレを見よう。ドアが空いてれば風炉の約束。 然ラバ速ニ足袋ヲ脱ベシ 爐ノ時ハ尤モ足袋ヲ用テ吉又不用共不苦 風爐ニハ必ズ不可用也 ならさっさと足袋を脱いでおこう。 炉の時は足袋を履いててもいいけど、まぁ脱いだって別にいいや。 でも絶

    茶道規範64 要録 季節感 - なにがし庵日記
    florentine
    florentine 2015/10/16
    「 然ラバ速ニ足袋ヲ脱ベシ 爐ノ時ハ尤モ足袋ヲ用テ吉又不用共不苦 風爐ニハ必ズ不可用也」
  • 茶道規範58 要録 取り合わせ - なにがし庵日記

    道具與道具取合之事 夫レ器ト器ノ取合物好ノ肝要數奇者タルノ眼也 方ニ圓ト大ニ小ト高ニ低ト廣ニ狭各體用相應アリ 是レ道ノ元ニシテ易ニ所謂一陰一陽道ノ始ナリ 不得止ノ理也 道具の取合せは、茶人の一番大切な部分。 四角と丸を、大と小を、高と低を、広と狭を取り合わすのがふさわしい。 これが道の元であり、陰陽道の一陰一陽に通じる。 理屈だけに留めないように。 利休能ク識テ用行モノガ當道ヲ勤テ名アル人ノ説トテ云ク 釜ノ大ニ水壺ノ小ヲ用ル事湯多キガ故ニ水ノ所用ナシ 小釜ニ大水壺ヲ用ル事水多ク可用為ト也 尤モ一理達メ聞ニ悦ブ 我ガ所傳不然各大小ヲ應ズルコト陰陽體用ノ至極如前ト或説モ亦 善理ニ似タリト云共理ニ非ルヲ以テ不合ス 其四方ト圓形ノ辨ハ如何ン又茶盛ノ小ニ茶碗ノ大ヲ如何ントカセン 諸道具其ヲ學バンニハ不如 故ニ聖語ニ立而道生ト云リ 利休はよく理解して実践していたが、この道のある名人が言った事とし

    茶道規範58 要録 取り合わせ - なにがし庵日記
    florentine
    florentine 2015/10/10
    御道具取り合わせ。季節感、ほんと、どのあたりでなんだろう?
  • 茶道規範57 要録 花入 - なにがし庵日記

    竹ノ花入之事相州小田原陣ノ時利休始テ作ル節一ツ入テ伐リ尺八ト號シ秀吉公ヘ献ズ (略) 其時又節二ツヲ入口ヲ開テ伐リ園城寺ト號ス此筒ニヒビノ破目アル故ニ三井ノ鐘ニ託スルカ息少庵ニ與フ此制ヲ一重ト云フ 其後大竹ニテ二節二口ニメ二重ト云フ花生トメ終ニ小座席ヘハ不出利休死後其作タルヲ以テ小座敷ヘ出シ用ユ 是後人ノ賞スル所也 (略) 竹の花入の起源はいつもどおり。 ただ、二重口(「夜長」だろうか)に関しては、侘び茶にふさわしい道具ではない、と利休が考えていた事がわかる。 さらに、それを受け継いだ人間が、その利休の意をさくっと無視したことも。 だから「誰」とは書いていないのだろうか? 二重ニハ上ノ重ヲ第一ニ入ベシ下ニハアヒシラウベシ水バカリ入テ花ナク共吉 一重モ上第一トシテ口ハ二重ノ心也 草花ト木花上下ノ習ヲ末流ニ云リ不用 二重切の使い方が書かれている。 如心斎は「下の方に入れろ」と指導していたような

    茶道規範57 要録 花入 - なにがし庵日記
    florentine
    florentine 2015/10/08
    例の「園城寺」
  • 茶道規範54 要録 茶杓 - なにがし庵日記

    茶杓の歴史。 鄭恩*1ガ茶譜ヲ按ズルニ撩雲ハ茶具十六箇ノ内竹ノ茶匙也ト云リ 撩ハ取物ヲカカゲル(木+龍)ト注ス 竹ノ茶杓唐明ニ初ル 倭朝ニハ往昔象牙ヲ以上テ作ル 中国の茶書、茶譜には「撩雲」という竹の茶匙があったという。 竹の茶杓は中国が起源である。 日は昔は象牙で作っていた。 …この話だと、象牙茶杓はシノワの影響でないことになり、日独自の工夫、という事になってしまう。 よく考えると、象牙茶杓の存在は茶の湯が禅寺由来でない事を示している様な気がするのだが、当時の仏教の象牙に関する感覚がどうだったかわからないので、殺生戒にひっかか るかどうかは微妙か? 其コロ象牙稀有ナリ故ニ侘人ハ水牛ノ角ニテ作ル汚穢ヲ厭ツテ漆ニテ塗テ用ユ 然ルヲ祖師珠光輕ク侘テ竹ノ目ノ添樋有テ節ナキヲ以テ作ル 紹鴎モ亦従之 其ノ後利休ニ至テ竹ニテ作ランニハ節アラデハトテ添樋ナキ節竹ヲ以テ造クル 自此己往昔従之樋ハ茶ヲ匙

    茶道規範54 要録 茶杓 - なにがし庵日記
  • 茶道規範56 要録 蓋置 - なにがし庵日記

    其比類又多シ五徳アリ蟹アリ人形三並ビタル有リ紫銅青磁アリ夜學ト云フモ青磁ナリ 利休好ミノ陶アリ 五徳ハ輪ヲ上ニシテ爪一ツヲ前トス人形ハ(略) 今思うような蓋置は大体出尽くしている感じがする。 利休ごのみは陶器のもの…つくねだろうか? 逆に言うと言及されていない「利休七種蓋置」は成立していなかったのではなかろうか。 つまり利休七種蓋置はここから後の時代の商業化による成立だと思う。 竹ニテ造ルニハ節アリ即チ高サ一寸六分無節ハ一寸五分程ニ可伐常用ルニ根竹ヲ右ノ寸法ニ伐テ用ユ 口切或ハ尊貴ヘ献茶ノ時ハ必ズ青竹ニテ作ルベシ (略) 口切に青竹のを使う風習は既にあった 気になるのは風炉と炉で節の位置が違う…なんてことはなかった様に読めることだ。 しかし伝利休とか伝宗旦の蓋置が現存していて、それぞれに節の位置がいろいろあるんだが、実は適当に作っていて、意味は後で付与された、ということだろうか。

    茶道規範56 要録 蓋置 - なにがし庵日記
  • 茶道規範53 要録 茶筅 - なにがし庵日記

    このから、江戸時代中初期の茶筅事情がちょっと判る。 一 茶筅*1之事圖アリ 又タ蓬莱流ト云フアリ京師畑枝ノ與太郎ト云フ者爾今在テ造ル 穗ヲ太クアラ/\トシ眞穗ヲ太クヤスラカニ外ヘハヌルト内ヲ直ニスルニ付テ眞穗少長クナル也好テ用ユ 與太郎の茶筅は外穂が太く/荒く、中穂も太く外に向かって反っていた。この反りがまっすぐになるに従い、中穂の長さが少し増すというもので、宗偏は好んで使っていた。 奈良高山の影もないのが面白い。 惣メ利休形ハ編目ヲ絲二筋ニスベシ 竹ノ目ノ方前ニメ編留メ後也 (略) 利休形の茶筅は編み糸が二条。 竹の芽が前に来て、編み留めは後ろ。 現代の茶筅は編み糸が二条なんてケチ臭いことはない。 また、竹の芽も編み留めも同じ方向についていて、そっちが正面。 いつからか変わってしまったわけだ。 「利休形中棗」の形が不変なのは、「利休形中棗」の実物が残っているからである。 しかし茶筅の場

    茶道規範53 要録 茶筅 - なにがし庵日記
  • 茶道規範41 聞書の位置付け - なにがし庵日記

    昨日ので聞書は終わり。 長々やってきたが、茶道便蒙抄と聞書について一辺総括したい。 茶道便蒙抄は宗偏の頃…江戸中期の前半あたりの茶を反映している。 聞書は大正時代に、それを解釈し直したものである。 大正時代の宗偏流の危機感は口伝による伝授で、各地方のお点前にバラツキがあること。 それを、聞書という書籍で、統一化をはかろう、というのが聞書の「表向き」の目的である。 おそらく当の目的は、トルコ帰りの実業家であった山田宗有/寅次郎のガバナンス強化であろう。 40年の家元不在期間から、宗有が家元を襲名したのは、書刊行のわずか2年前に過ぎない。 その40年の間に、宗偏流の地方組織は宗家からかなりそっぽを向いていたんではなかろうか? 集金機構がどうなっていたかわからないが、少なくとも宗家の威光は利用できない状態で明治後半と大正前期の近代数寄者の茶の湯華やかな時代を棒に振ってしまったわけだから。 そ

    茶道規範41 聞書の位置付け - なにがし庵日記
    florentine
    florentine 2015/09/19
    「トルコ帰りの実業家であった山田宗有/寅次郎のガバナンス強化であろう。 40年の家元不在期間から、宗有が家元を襲名したのは、本書刊行のわずか2年前に過ぎない」
  • 茶道規範29 聞書 炉開き - なにがし庵日記

    ここからは茶道便蒙抄第三。 風爐主方の事、から始まる。 風爐に揚る時節不定と心得るべし。 利休正月三日に。長閑なる時風爐に揚らるヽ事あり。 是にて了簡あるべし。 風炉と炉の切替えは、決まってない。 利休は正月三日があったかかった時、風炉にしたことがある。 わかれよ! 當代は四月朔日風爐に揚ると云う。開爐は十月朔日。それより口切仕のよし不心得 七八月にても世間寒くば開爐あるべし。 最近は4月1日に風炉に。10月1日に炉に変えるという。それで口切をするのだとか。アホか。 夏でも寒いときは炉にするんだよ! とまぁ、茶道便蒙抄は言う。 んで聞書。ほぼ全文そのままである。が、最後が違う。 八月末九月末に至り世間寒くば開爐くるしからず。 口切より必ず開爐するに及ばず。 秋が早かったら炉に変えていいんやで。口切と炉開きは別のタイミングで構わんのやし。 去ながら六七月頃寒きとて開爐するは陽氣ひらきたる時節

    茶道規範29 聞書 炉開き - なにがし庵日記
    florentine
    florentine 2015/09/07
    「 風爐に揚る時節不定と心得るべし。 利休正月三日に。長閑なる時風爐に揚らるヽ事あり。 是にて了簡あるべし。」
  • 9月の展覧会 - なにがし庵日記

    秋展示開始。 関西のボリューム感が凄い。 関東では根津が楽しみ。あと湯島はノーチェックでした。失敗失敗。 東京近郊 期間 タイトル 備考 畠山記念館 -9/13 涼づくし 根津美術館 -9/6 絵の音を聞く 清秋を楽しむ茶 根津美術館 9/19-11/3 根津青山の至宝 湯島天満宮宝物殿 -9/20 茶人古田織部 サントリー美術館 -9/27 国宝曜変天目茶碗と日の美 岡田美術館 9/5-3/31 箱根で琳派 大公開 中部〜北陸 サンリツ服部美術館 -11/15 花ひらく琳派 徳川美術館 -9/13 徳川家康の遺産 桑山美術館 9/5-12/6 茶会へのいざない 昭和美術館 9/12-12/6 和歌の世界 木村茶道美術館 9,10月 渡来茶碗展、書の掛物展 錦秋茶席 金沢市立中村記念美術館 9/9-11/29 茶道美術名品展 関西 彦根城博物館 9/18-10/20 一期一会の世界 大名

    9月の展覧会 - なにがし庵日記
  • サントリー美術館 国宝曜変天目茶碗と日本の美 - なにがし庵日記

    入口に飾られた「名品ずらり。めっちゃええやん!」に、パチモノ関西弁のスメルを感じるが、サントリー大阪の企業だった。虎屋化が進んでいるのかもしれない。 さて、結論から言う。 藤田美術館の蔵は、親しみは持てるが、やはりあのモコモコのガラスとへっぽこ照明は、糞である。 なんなの?サントリーで見る藤田コレクションの三割増し感。ガラスと照明のすばらしさ。 特に「三方開春日厨子」は、小さな箱の奥の絵まで照明があたっていて、腰が抜けるかと思った。 また、展示スペースが大きいためか、普段見られない大物も展示されていてうれしい。 茶道具は、割と「いつもの」感。しかし「老僧」を持ってこないなんて許されるのだろうか? あと、御所丸黒刷毛目茶碗は、高台の方を見せてほしい。展示替えで天地返ししてくれるなら、もっぺん行くよ! 藤田美術館よりショーケースがやや遠い。 6倍くらいのミュージアムスコープを持ち込むことをお

    サントリー美術館 国宝曜変天目茶碗と日本の美 - なにがし庵日記
  • 茶道規範23 聞書 座入して作法の事 - なにがし庵日記

    客座入り作法、茶道便蒙抄に比べ大幅に増えている。 江戸時代に比べ、約束ごとの多くなったジャンルと言える。 一 座入の事。惣て能々考へざれば騒々敷ものなり 上座は正客に随て定むべし。 他流の者と客中組合たる時當流はかやう。末流は非儀などヽ思ひたる時は却て失禮も出來るものなり 自分正客たらば心得たる通りすべし。 (略) 正客に合わせなさい。他流と一緒の時、相手を末流と見下してたら失礼になる。 自分が正客の時は堂々とやんなさい。 ということ。 江戸時代の地場だと、同流で独占できてそうだから、他流との混在が多くなる時代の流れか。 一 老人等懸物の文字細かにて立ちても猶見えかぬる時は床へ上りて見物すべし。 老若ともに苦しからず。 見終りて床を下り床ふちの方右にても左にても勝手よろしき方の手を縁にかけ頭を下げて立つべし是習ひなり。 飛鳥井家の座敷鞠といふ事あり。床に鞠ありて蹴る時此あしらひあるよし 見

    茶道規範23 聞書 座入して作法の事 - なにがし庵日記
    florentine
    florentine 2015/08/31
    鞠! 煙草盆はそうだろうなあ、と。
  • 淡交増刊 寛永文化と茶の湯4 信仰と芸術の人 - なにがし庵日記

    赤井達郎著。 阿弥光悦の話であるが、気になるのは別の点。阿弥自体の話。 妙から数代の阿弥家の働きはほとんど明らかにしえないが、室町時代も末、天文法華の乱になると「後藤・阿三、茶屋、野等壇那已下三千余、西陣・東陣を支えたり」といわれるように、京都の上層町衆としてはなばなしく登場してくる。 なんで阿弥家は上層町衆をやってられたんだろう? 阿弥家が三千の1/5くらい出していたとして、兵を600人出せる…というのは、2万石の大名と変わらないのだが…。 後藤の様な金工房経営や茶屋の様な豪商なら分る。 阿弥家は刀の目利きと刀装具という、受注生産の世界の人間で、右のものを左にして儲けるというより、もっと労働集約的な仕事じゃないだろうか? そこまで金持ちになれる要素がないような気がするのだが…。

    淡交増刊 寛永文化と茶の湯4 信仰と芸術の人 - なにがし庵日記
    florentine
    florentine 2015/07/15
    「本阿弥家が三千の1/5くらい出していたとして、兵を600人出せる…というのは、2万石の大名と変わらないのだが…」