ブックマーク / someru.blog74.fc2.com (12)

  • Hang Reviewers High / 北斗の拳

    先月までは80年代のマンガについて考えていたのだが、いろんな事情が重なって90年代、とくに90年代前半のマンガ全体について考える必要を感じたので、80年代はいったん放り出して90年代のマンガについてちょいと頭を巡らせたが、それを自分で考え出すとすごく面倒な作業になるなとすぐに気づいたので今はそういうアプローチでモノを考えるのは止めにした。しかし、タイミング的にはベストのだと思うのでいつかゆっくり考えてみたいな。80年代について考えるのが終わるころには。 で、話は前後するが80年代についてはずいぶん長きにわたって考えていたのだが、さしあたって先月から今月にかけて読んでいたのは北斗の拳だった。僕が80年代の、特にジャンプのマンガについて読む際にはもっぱら「戦う理由」ばかりを注視している。今さら言うまでもないが、それは90年代にまでずっと連なり、ついには9.11以降などと呼ばれる現在において「物

  • Hang Reviewers High / BSマンガ夜話

    BSマンガ夜話「花男」の回を見直す。ついでに「バタアシ金魚」の回もパラパラと飛ばしながら見る。暴力でぶこと大月隆寛が松大洋における民俗学的なテーマの存在を指摘していたが、ちょうど先日「鉄コン筋クリート」について同じことを言ったばかりだったので全く正しいなあ(俺が)と思った。夏目房之介は「そうかなあ?」という反応だったが、彼が指摘していた作品内のユートピア/ディストピアまたはドラッグによるトリップ感のような風景描写というのも結局は同じことを指摘しているように感じた。バタアシ金魚については今考えたいテーマでもなかったので特に感じず。その後民俗学について考えようかと思うが、全く知識がないため民話や神話の機能という基的なところから考え始めねばならず大変面倒になり、やめた。 それにしてもこの番組で大月隆寛を見るたびに「暴力でぶだ、ICレコーダーにフォークの人だ」とムリヤリ感じようとしてしまうな。

  • Hang Reviewers High / テヅカ・イズ・デッド

    この話は変だと思う。松永さんは意図的にかなにか分からないけど、「萌え」ということをつまりは高いレベルの「感情移入」であり「同一視」のようなものなのだ、と説明してしまっている。いくつかの話の展開を重ねることで(グインサーガから銀英伝に至る流れで)話をずいぶんと単純化させてしまっている。「物語派(グループ派)→キャラ萌え(押しメン)→属性萌えと並べると、順にマニア度・ヲタク度が高くなるような気がする」なんて言っちゃうのは、当に言い過ぎだ。このモデルは誰かにとって面白いのかもしれないけれど、ずいぶんと話をジャンプさせすぎだろう。面白いモデルというのは、いつも正しいわけじゃないし、時として上手いことを言えてすらいない。「こういうふうに言ったら面白い」というだけのことが、今のインターネットではいつの間にか「上手いことを言っている」ようになってしまうのが助長されるみたいで、僕は好きじゃないな。 話は

  • Hang Reviewers High

    環ROY「BREAK BOY」 環ROYの新しいアルバム「BREAK BOY」は実直で律儀なアルバムだ。環ROYはここで、彼のような才能に溢れたアーティストであれば全く無視してもいい事柄について綿密に語っている。 おそらく、彼がヒップホップという狭いフィールドを飛び出して、外部に立つ覚悟を持っていることは、誰もが認るところだろう。だから彼は、トラックにおいてもリリックにおいても、その筋のリスナーやミュージシャンが認める「いわゆるヒップホップ」の音楽性から離れて、縦横無尽にラップすることができる。ところが、このアルバムには、一聴すると「いわゆるヒップホップ」のように聞こえる歌詞があるだろう。しかしそのように聞こえてしまう余地こそが、このアルバムが立ち向かった困難さを示している。 環ROYはこのアルバムの中で、何度も繰り返して、音楽に、ヒップホップに、両義的な評価を与えていく。「J-RAP」の

  • Hang Reviewers High / 鉄コン筋クリート

    「物語の終焉」あるいは「物語の死」という問題は、ごく最近になって論じられ始めたわけではなく、遅くとも70年代には物語の形式として今や最古に属するものの1つである小説において発見されたテーマだった。僕の印象では、この問題はほかのジャンルのフィクションにおいてもいずれは到達する問題であったが、最初に発見されたのが斜陽と言っていいジャンルである小説においてだったために、以後80年代の半ば過ぎまでは、その愛好者間においてのみ、ひっそりと危惧され続けていた。例えば1980年、ジョン・バースはエッセイ「補給の文学」の中でこんなことを書いている。ブログに引用するにはかなり長いものだが、とても確かなことが記されている上に志村正雄による訳が好きなので引用しよう。 私のエッセイの趣旨を簡単に言えば、芸術の形式と様式は人間の歴史の中に生きている、それゆえ使い尽くされた状態になりかねない――少なくとも特定の時と所

  • Hang Reviewers High / Anime World Order Show

    ブログがずいぶん整備された結果、ウェブではどこを見ても同じ話題しか手に入らないことが多くなってしまった。それなりの間、RSSやブログをまじめに使ってみたのだが、やはり情報に偏りが作られにくいようだ。この新しい流通手法のおかげで情報がこんなに流れやすくなったというのは僕だって素晴らしいことだと思う。しかしマスコミが流す大営発表や個人が書き留めた些細な話題が技術の上で平等に流通していながら、同時にその技術そのものが「みんな」にとっての重要度に合わせて話題の価値を決定付けることを許してしまっている。しかしこの技術に平等さがあるから多様性を実現しうるというのは誤解で、平等さは衆目の集まりやすい記事に誰もが注目しやすいという平凡な状況しかもたらしていないように思う。個々のユーザーが能動的に情報を集めていると錯覚させながら実態としてプッシュ型に近づいてしまうというのは退屈どころか欠陥を含んだシステム

  • Hang Reviewers High / ユリイカ2007年1月号「特集*松本大洋」

    「さやわか」という筆名で、12月27日発売の「ユリイカ」に拙文を寄稿させていただきました。それはこういう内容です。 特集*松大洋 【Walk on the wild side...】 ハードボイルドまんが道をゆく / 松大洋+高野文子 【少年たちの風景】 松大洋という深い海 / 松隆 僕の中の『鉄コン筋クリート』 / 奈良美智 余白、想像について / 後藤正文 【タイヨウの軌道を追って】 男の都 / 三田格 拳と花 松大洋 『ZERO』 について / 石岡良治 追想の捕球法 『花男』 論 / 細馬宏通 パラダイスなんて存在しないし、ヒーローもいない / 仲俣暁生 ユートピアを開く力学 / 中田健太郎 ペコの左手アクマの右手 松大洋 『ピンポン』 における超越と内在 / 高橋明彦 『日の兄弟』をめぐるノート、もしくは架空の短篇作品「泄(こぼれ)」のために / 前田塁 ノスタルジ

  • Hang Reviewers High / 新現実 Vol.1

    先日、SFマガジン6月号で連載が終了した宇野常寛「ゼロ年代の想像力」の連載分をすべて一気読みした。彼の展開する議論には、僕にとって賛同できるいくつかの部分と、そうでないいくつかの部分がある。それについて、まず一点を僕が思う状況を整理しながら考えてみたい。 彼の主張は、まず「90年代の『引きこもり』」があり、2000年代前半に「エヴァ」的感性の延長線上、あるいは残滓であるセカイ系があり、そしてゼロ年代においては 社会の既存のルールが壊れていることは「当たり前のこと」として受け入れ、それを自分の力で再構築しようといこうとする という、「DEATH NOTE」の夜神月に象徴される「決断主義」が来るという一連のフィクションの流れがあったという。 僕は現在、彼の言う「決断主義」のようなものがゼロ年代のフィクションとして大きく特徴付けられるという主張に異論がない(なお参考までに記しておくと、彼の主張は

  • Hang Reviewers High / ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2

    東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」は、とても親切なであり、まずはそれに感心した。 前作となる「動物化するポストモダン」に限らず、これまで東浩紀の著作のやり方は、主張を固めるための検証作業がともすれば大雑把であるし、また、さほどに関連性が深いとは言えない事例を強引に繋ぎ合わせて一つの流れを意識させようとするものがあった。僕はこのやり方を批判するものではない。むしろ、あざやかに全体の論旨を生み出していくダイナミックさに感銘を受ける。 しかしもちろん、このような書き方は批評の言語としては今の日で例の少ないものだから、読者は彼のやり方に違和感を感じるかもしれない。だが彼がなぜこれを選んでいるかということは、現在に至るまでの東浩紀の批評活動のルーツがすべて収められた「郵便的不安たち#」を読めば明確に分かるはずだ。ここでは簡単に触れるまでにしたいが、要するに彼の動機にはポ

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    fm963 2009/01/02
    「彼の動機にはポストモダン化が徹底された現代においては批評がもはや成り立たないという強い危機意識がある。そして、超越的な論理によって社会全体を語ることができない時代には、従来的な言論はオタク的に各分野を追求するしかできなくなってしまう。彼はそれに抵抗している。各分野で閉塞せず、しかも超越的な論理なしでもジャンルを横断できる批評の方法を模索しているのだ。」
  • Hang Reviewers High / 思想地図 vol.1

    「思想地図 vol.1」において、個人的に面白かったのは福嶋亮大による中国ライトノベル状況に関する考察と、韓東賢による「朝鮮学校はヤバい」という伝説から始まる議論だった。前者は僕がしばしば好む「自分の知らないところで何かが起こっている」ということについてのレポートであり、後者は90年代に社会学を楽しんだ僕としては見逃すことのできない現代のフォークロアから始まる話だったので、楽しかったのだ。 しかし最も考えさせられたのは黒瀬陽平による公募論文だった。僕はここで彼が書いているアニメ表現論は優れたものだと思うし、いま書かれるべきものとして正しいと思う。しかし、僕が注目させられたのは彼が自ら表現論を展開する動機として書いている内容だった。それは、現在のアニメ批評に表現論がなく、物語論だけが氾濫しているため「萌えアニメ」のようなものを扱えずに批評は停滞しているのではないかというものだ。黒瀬陽平の整

    fm963
    fm963 2009/01/02
    「アニメを語ろうとする者がいま、ポストモダンの批評におなじみにある「メタフィクション性から現実社会の問題を指摘する」というパターン化が可能な作品のみを批評の対象としたがっている、ということである。」
  • Hang Reviewers High / 文学環境論集 東浩紀コレクションL

    東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」は「ファウスト」に数回にわたって連載されたものだが、彼は議論を半ばで打ち切り、連載をいったん終わらせた。そのため、この連載の内容は現在は「文学環境論集 東浩紀コレクションL」にのみ収められている。しかし連載で提示された「ゲーム的リアリズム」というリアリズムに関する新たな試みは継続され、より発展させられたものとして「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」という優れた著作に結実した。 僕はこの「ゲーム的リアリズムの誕生」という著作ないしは「ゲーム的リアリズム」という彼の定義を、現代のフィクションに対する批評の方向性のあり方として、また時代を語るための寄る辺として、諸手を挙げて支持する。だが、連載「メタリアル・フィクションの誕生」には彼が「ゲーム的リアリズム」を見出すに至った動機に類する内容が多く含まれており、そして今ここにそれを参照する意味

    fm963
    fm963 2009/01/02
    「作家が物語が定型的にしかあれないということを知りつつ、なお現代において定型的な物語を肯定的に選択するに至るに際し、どのような創造的営みによってそれを可能にしているかということを単に見落とそうとする」
  • Hang Reviewers High / ユリイカ 第40巻第5号

    「ユリイカ」にて宇多田ヒカルの歌詞について書いた文章のことを、ここに書こうと思っている間に次の号が出てしまった。そうこうしているあいだに、もうすぐさらにその次の号が出るという。 今売っている号では、僕が「空の境界」について作者の奈須きのこさんに去年の夏行ったインタビューを掲載していただいている。これは僕が初めて奈須さんにお会いしてお話を伺ったときのもので、今になって読んでみるとずいぶん読者としての自分の思いが先走った部分がたくさんあって恥ずかしい。だからインタビューなのにやけに僕が話している部分が多い。何とも恥ずかしいが、時間が経っていることもあって修復のしようがないのでそのまま当時の理解を伝えるものとして掲載していただいた。 しかし見方を変えれば、このインタビューは、僕が現在、全七回上映される映画のパンフレットの中で七回に渡って奈須さんにインタビューを行えることになったきっかけになったも

    fm963
    fm963 2009/01/02
    「言語は、最終的に伝達不可能性を抱えている。その上で我々が他者と歩み寄るというのはどういうことなのか、受け手は作家が送ったものをどう享受すべきなのか、僕はそれについて考える上で、今、言葉や物語が流通す
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