memoと評論に関するfm963のブックマーク (5)

  • http://www012.upp.so-net.ne.jp/noyasu/game/first/gameetc2.htm

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    fm963 2009/01/13
    「商業作品に関して、 それが買うに値するものであるかどうかの指針を 目標として書かれたものが「批評」であり、 商業主義を離れたところで 作品について書かれたものを「評論」である、 と定義することにする。」
  • Hang Reviewers High / ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2

    東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」は、とても親切なであり、まずはそれに感心した。 前作となる「動物化するポストモダン」に限らず、これまで東浩紀の著作のやり方は、主張を固めるための検証作業がともすれば大雑把であるし、また、さほどに関連性が深いとは言えない事例を強引に繋ぎ合わせて一つの流れを意識させようとするものがあった。僕はこのやり方を批判するものではない。むしろ、あざやかに全体の論旨を生み出していくダイナミックさに感銘を受ける。 しかしもちろん、このような書き方は批評の言語としては今の日で例の少ないものだから、読者は彼のやり方に違和感を感じるかもしれない。だが彼がなぜこれを選んでいるかということは、現在に至るまでの東浩紀の批評活動のルーツがすべて収められた「郵便的不安たち#」を読めば明確に分かるはずだ。ここでは簡単に触れるまでにしたいが、要するに彼の動機にはポ

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    fm963 2009/01/02
    「彼の動機にはポストモダン化が徹底された現代においては批評がもはや成り立たないという強い危機意識がある。そして、超越的な論理によって社会全体を語ることができない時代には、従来的な言論はオタク的に各分野を追求するしかできなくなってしまう。彼はそれに抵抗している。各分野で閉塞せず、しかも超越的な論理なしでもジャンルを横断できる批評の方法を模索しているのだ。」
  • マンガとアニメーションの間に(5-2): たけくまメモ

    第五回「反“物語”作家としての大友克洋」(2) ●『NOTHING WILL BE AS IT WAS』に見る「反物語」 70年代大友の特徴がもっともよく現れている作品として、'77年の『NOTHING WILL BE AS IT WAS』をあげたい。この作品は、自室で口論になった友人を思わず殺してしまった主人公が、死体の処理に困って、ひたすら死体をバラバラにして「処理する」過程を描いた作品である。 この作品では、殺人事件を扱った犯罪ドラマがまず描くであろう「殺人の動機」や「殺人に至る過程」が一切描かれない。冒頭のコマからして自室の畳の上にゴロリと転がった死体のアップであり、その後の処分過程を綿密に、しかし淡々と描くのみである。さらには、犯罪の結果もここには描かれない。作品の中で、アパートの住民が主人公の挙動に不審なものを感じることが描かれるのみで、その後の犯罪の発覚や、逮捕の場面などもま

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    fm963 2009/01/02
    「マンガ史的に見た場合、大友作品は「映画的手法」のひとつの終着点であるということができる。徹底して画像の「客観性」にこだわり、線の強弱を抑制し、漫符のような「マンガ的手法」も可能な限り排除する。しかしながら、それが紙という二次元メディアにおける「時間表現」である以上、これはやはり、あくまでもマンガなのである。」
  • マンガとアニメーションの間に(5-1): たけくまメモ

    ■京都精華大学連続講義レジュメ 第五回「反“物語”作家としての大友克洋」(1) 講師 竹熊健太郎 ●70年代から80年代にかけてのマンガ状況 大友克洋は70年代前半にデビューした作家である。最初に、彼がデビューした70年代から80年代初頭にかけてのマンガ状況を整理してみる。この時期はマンガ界にとっては、空前絶後の大変動期であった。簡単にまとめてみると、 ▲青年誌(ビッグコミック、漫画アクション、ヤングコミック等)の台頭により劇画状況が爛熟する。 ▲オイルショックによる経済不況に加えて、青年誌に年長読者をとられ、「少年チャンピオン」「少年ジャンプ」などの新興少年誌に年少読者を奪われて、「少年サンデー」「少年マガジン」が大幅に部数を落とす。 →マンガ雑誌の世代交代が始まる。 ▲男性読者も巻き込んだ一大少女マンガブームが起こる。 →その中心にいたのが竹宮恵子先生ら「24年組」と呼ばれた女性作家た

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    fm963 2009/01/02
    「大友は、強弱の希薄な丸ペンの細い線で、背景と人物を「同格」に描いたのである。大友マンガの客観性はここから生まれたが、これはそれまでの劇画手法ではまずありえない描法だった。そういう描き方をとった場合、普通は作画レベルで「キャラが立たない」のである。 」
  • Hang Reviewers High / 思想地図 vol.1

    「思想地図 vol.1」において、個人的に面白かったのは福嶋亮大による中国ライトノベル状況に関する考察と、韓東賢による「朝鮮学校はヤバい」という伝説から始まる議論だった。前者は僕がしばしば好む「自分の知らないところで何かが起こっている」ということについてのレポートであり、後者は90年代に社会学を楽しんだ僕としては見逃すことのできない現代のフォークロアから始まる話だったので、楽しかったのだ。 しかし最も考えさせられたのは黒瀬陽平による公募論文だった。僕はここで彼が書いているアニメ表現論は優れたものだと思うし、いま書かれるべきものとして正しいと思う。しかし、僕が注目させられたのは彼が自ら表現論を展開する動機として書いている内容だった。それは、現在のアニメ批評に表現論がなく、物語論だけが氾濫しているため「萌えアニメ」のようなものを扱えずに批評は停滞しているのではないかというものだ。黒瀬陽平の整

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    fm963 2009/01/02
    「アニメを語ろうとする者がいま、ポストモダンの批評におなじみにある「メタフィクション性から現実社会の問題を指摘する」というパターン化が可能な作品のみを批評の対象としたがっている、ということである。」
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