タグ

ブックマーク / meigata-bokushin.secret.jp (15)

  • 「御国が来ますように」 - 牧師の書斎

    1. 「御国」とは イェシュアが30年の沈黙を破って公の生涯へと入られた時、その第一声は、「悔い改めなさい。天の御国は近づいた」(マタイ4:17)でした。マルコの福音書では「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(1:15)。また、 「神の国とその義を第一に求めなさい。」(マタイ6:33)とも。 「天の御国」「神の国」「御国」・・日語では異なった訳をしていますが、原語のギリシア語も英語もひとつの言葉で表わされます。それはギリシア語では「ヘー・バシレイア」( ἡ βασιλεία)、英語では「ユア・キングダム」(Your kingdom)という言葉です。「バシレイア」、「キングダム」は「王国・統治・支配」という意味です。つまり、聖書の言う「御国」というのは「神が支配する王国」のことです。 イェシュアのメッセージは一貫して「御国」でした。イエスは多くのたとえ話を話されま

  • パウロのとりなしのkeyword<1>Christ’s Love - 牧師の書斎

    はじめに パウロの書簡はパウロのとりなしの祈りによってもたらされた結晶である。パウロは教会につながる人々(聖徒たち)のために、「昼も夜も」「絶えず」「いつも」「思わぬ時がないほど」祈っていた。これはパウロが気まぐれではなく、毎日、定期的に祈っていたことを意味する。書簡の中でパウロが実際に「~のことを祈っています」という表現を使っている箇所のみならず、パウロが諸教会のために宛てた手紙の内容(感謝、勧告、命令等)そのものが、絶えずとりなされた祈りから生まれた結晶と言える。新約の書簡は旧約聖書でいうならば詩歌書に匹敵する。(注1) パウロはエペソ人への手紙の中で二つの偉大なとりなしの祈りを記している。その一つの箇所は1章15~19節である。そしてもうひとつの箇所は今回取り上げる3章14~21節である。 (1) エペソ書3章14節~21節の祈りの構造 「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地

    freedomcat
    freedomcat 2016/04/12
    パウロの祈り
  • 「レクチオ・ディヴィナ」の源泉としての詩篇119篇 - 牧師の書斎

    「レクチオ・ディヴィナ」の源泉としての詩篇119篇 祈りの一つとしての「レクチオ・ディヴィナ」(Lectio Divina)があります。「聖なる読書」とも呼ばれていますが、これは沈黙と静けさの中で、ゆっくりと神のことばを読む、聞く、味わう、ふれる、さわるという祈りです。特に、「ゆっくり」というのは「非常にゆっくり」という意味で、これは決して容易なことではありません。自転車をきわめてゆっくりとしたスピードで乗ることが至難のわざであるのと同じです。「非常にゆっくりと聖書を読む」ことがそのまま祈りとなるような「レクチオ・ディヴィナ」。これは修練が不可欠な祈りと言えます。 ベネディクト会をはじめとする修道生活から明確に「聖務日課」として位置づけられ、聖書の読み方、祈り方を教える「レクチオ・ディヴィナ」は、すでに紀元6世紀以降に生まれた神への祈りでした。 詩篇119篇はバビロンに捕囚となったイスラエ

  • 「父よ」 - 牧師の書斎

    1. イェシュアの専用語としての「天の父」、「天にいます父」 ルカによれば、「主の祈り」は、イェシュアの弟子たちが師であるイェシュアの権威ある教えや、力ある不思議なわざを見るにつけ、その力の源泉がどこにあるのかと疑問を感じていたに違いありません。弟子たちはイェシュアが多忙で疲れていても、朝早く起きて、だれからも邪魔されることのない時間に、ひとり静かに祈っている姿をずっと見てきました。弟子たちの心の中にそんな祈りを自分たちもしてみたいと思うようになるのは当然のことです。そして「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」と願ったことではじめて、「祈るときは、こう祈りなさい。」と言って教えてくださった祈りが、この「主の祈り」でした。 どのように呼びかけるのか、なにを祈るのか、どういう順序で祈るのか・・も含めて、イェシュアは弟子たちに祈りのアウトラインを示されたのでした。アウトラインですから、その肉

  • 瞑想Ps89/C - 牧師の書斎

    Ⅲ/A(73~89篇) | テキストPs89 | 原典テキストPs89 | 瞑想Ps89/A | 瞑想Ps89/B | 礼拝用語Ps89 | 恩寵用語Ps89 | Ps89の「かかわりの構造」 | 瞑想Ps89/C ・・・・「恵み」と「まこと」はワン・セット 詩89篇には他の詩篇にない特徴があります。その特徴というのは「恵み」と「まこと(真実)」ということばが、しかも、ワン・セットで7回も登場しているということです。このワン・セットは神がダビデと結んだ「ダビデ契約」の特徴です。しかもその契約には「とこしえに」「永遠に」ということばが附随していることも特徴的です(詩89篇では5回)。 新改訳聖書で「恵み」と訳されたヘセドは、口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、典礼訳では「いつくしみ(慈しみ)」と訳されています。バルバロ訳は「愛」と訳しています。英語では The mercy, the lovi

    freedomcat
    freedomcat 2014/12/14
    恵みとまこと
  • 喜んで仕える霊が、私を支えますように - 牧師の書斎

    【読み】 ハーシーヴァー リー セソーン イシュエーハー ヴェルーアッハ ネディーヴァー ティスメヘーニ 【文法】 【翻訳】 【新改訳改訂3】 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。 【口語訳】 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。 【新共同訳】 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。 【NKJV】 Restore to me the joy of Your salvation, And uphold me by Your generous Spirit. ダビデはだれよりも神を求め、神を慕い、神を愛した人です。と同時に、だれよりも神に背いた人でもあります。なんという謎、なんという明暗・清濁併せ持つ存在・・、しかし、これが人間の真実な姿です。詩篇の中でも、詩篇51篇ほど人間の罪の問題を深

    喜んで仕える霊が、私を支えますように - 牧師の書斎
    freedomcat
    freedomcat 2014/07/03
    "「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(1ヨハネ4:18)とあるように、全き愛から生まれる自発的な自由な心こそ、神の前に創造的なものを生み出し、かつ創り出して行く源泉的な力だと信じます。"
  • 1.新しい歌のさまざまな定義 - 牧師の書斎

    序論(1) ―新しい歌を主に向かって歌えー <はじめに> 聖書の中には「新しい歌を主に歌え」という命令が多く記述されている。詩篇33篇3節、40篇4節、96篇1節、98篇1節、144篇9節、149篇1節、イザヤ42篇10節、黙示録5章9節、14章3節の9回。 神の民である教会はその最初から歌う共同体であった。賛美なしにキリスト教礼拝は考えられない。キリスト教会はこの伝統をその母胎であったユダヤ教、ないしは旧約聖書の詩篇から受け継いだ。詩篇は賛美の源泉である。その詩篇の中に「新しい歌」という表現が見られる(聖書では9回のうち6回までが詩篇にある)。詩篇に発した「新しい歌」は、キリスト教会の歴史の初期から現代に至るまでの各時代に作られ、今日まで歌い続けられてきている。講義においては、教会史における「新しい歌」がどのようにして生まれ、それがどのように受け継がれ、また、新たな歌を必要とする状況を

  • ヘブル語の意味する「平和」(シャローム) - 牧師の書斎

    ヘブル語の意味する「平和」(シャローム) シャロームשָׁלוֹם(shalom)という名詞は、旧約では237回、詩篇では27回、詩篇119篇では165節の1回のみです。ちなみに、「都上りの歌」の歌集では重要なキーワードです(120:6, 7/122:6, 7, 8 /125:5/128:6) シャロームשָׁלוֹם(正確に発音すれば、シャーローム)は、現代のイスラエルにおいては日常の挨拶―「こんにちは」、「さようなら」―用語です。ちなみに、ギリシャ語の挨拶はエイレーネーです。ヨハネの福音書の20:19, 21, 26に使われています。「平安があなたがたにあるように」(エイレーネー・ヒュミーン)。これも「こんにちは」とか「こんばんは」という挨拶です。 しかし、ヘブル語のシャロームの来の意味は、単に、争いのない、平和な状態を表わすだけでなく、力と生命に溢れた動的な状態をいいます。シャロー

  • さらに大きなわざを行なうもうひとりの助け主 - 牧師の書斎

    【新改訳改訂第3版】14:12 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、また、それよりもさらに多くのわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」 14:16 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。」 はじめに 聖霊が、御父と御子ほどには知られていない理由として考えられることは、聖霊には御父と御子のような「顔」が見られないことです。御父と御子の場合には「顔と顔を合わせて」いるというイメージがあります。 たとえば、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)、「わたしを見た者は父を見たのです。」(ヨハネ14:9)、「父がわたしにおられ、わたしが父にいる」(10:38)、「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(同、14:10, 11)・・・といった表現がそうです。そのあまりに

    freedomcat
    freedomcat 2014/06/10
    もう一人のユダ
  • キリストの体なる教会 - 牧師の書斎

    1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 καὶ πάντα ὑπέταξεν ὑπὸ τοὺς πόδας αὐτοῦ, καὶ αὐτὸν ἔδωκεν κεφαλὴν ὑπὲρ πάντα τῇ ἐκκλησίᾳ, 1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 ἥτις ἐστὶν τὸ σῶμα αὐτοῦ, τὸ πλήρωμα τοῦ τὰ πάντα ἐν πᾶσιν πληρουμένου. はじめに 神、あるいはキリストと私たちの関係を表す類比はいろいろとあります。例えば、「羊飼いと羊」「陶器師と器」「ぶどうの木とその枝」「花婿と花嫁 (夫と)」「土台と建物」など、いずれも双方なしにはあり得ない関係です。

  • 預言的賛美 - 牧師の書斎

    (1) なにゆえに預言的なのか 預言的賛美とは、これからイエスによってなされることが、すでになされてしまったかのように記されているからである。つまり、未来形としてではなく、全部成就した過去形で語られている。完成から祈りと賛美が始まっているのである。しかも、そうした内容は人々に喜びと希望を与えている。 四つの預言的賛美は、すべて歌われたものではなく、語られた賛美である。 〔1〕マリヤの賛歌 (マニフィカート) 1章 46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、 47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。 48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。 49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、 50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。 5

    freedomcat
    freedomcat 2014/04/14
    賛美は要求に先立つ
  • 瞑想(1)「愛と憎」 - 牧師の書斎

    סサーメフ瞑想(1) 「愛と憎」 テキスト | 瞑想(2) 詩篇のパラレリズム(並行法、あるいは対句法)は、旧約思想の質を提示する上できわめて重要な叙述法です。113節の「私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。」にある「憎む」と「愛す」とは、一見、反対語ですが、内容的には同義です。つまり、「愛することは、憎むこと」でもあるのです。ユダヤ人の特性としてそれはきわめてはっきりとしています。イエスの次の言葉がよくそのことを表わしています。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神に仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24) ここには日人のような中庸的特性は見られません。 サメクの段落における相反する語彙(動詞)

    freedomcat
    freedomcat 2014/04/09
    ヨハネの二心
  • 神との関係を育てる <5> - 牧師の書斎

    A-19. 神との関係を育てる <5> ②<黙想>、あるいは<観想>という祈りのスタイル a. <黙想>と<観想>の違い 黙想の祈りと観想の祈りという世界がある。祈りの中で「黙想」と「観想」を区別する。その違いは、神に対しての姿勢の違いである。祈りが神の対話だとするならば、神へ向かう、つまり自分の立場を離れて神に向かう方向が<黙想の祈り>である。対話の世界、祈りの世界では、「向かう」ことは「迎える」ことに通じる。自分を離れて神に向うという動きは、ここでは逆になり、自分のところに来るものを受け入れる姿勢となる。つまり、自分のところに神を「迎える」方向が<観想の祈り>である。 しかし、私たちが神に「向かい」、神を「迎える」祈りをすることができるためには、神がまず私たちに「向かい」、私たちを「迎え」ておられるという事実が先立っていなくてはならない。私たちは「キリストなしに何もできないから」(ヨハ

    freedomcat
    freedomcat 2014/03/31
    観想の祈りと黙想の祈りの違い
  • 主との親しい交わりを妨げるもの <1> - 牧師の書斎

    はじめに 私たちの神との関係は、人々との関係と互いに不可分に織り合わされている。イエス・キリストのメッセージの中核は二つの要素からなっている。ひとつは神との内的な交わりの生活の必要性(Worship)と、世にあって、神のいのちを反映する生き方への招き(Intercession)である。それを実現させるのが豊かな祈りの生活であることを学んできた。しかし、その祈りの生活を妨げる障害となるものがある。ジェームズ・フーストンは『神との友情』(第2章)の中で、祈りの生活の障害となるものを以下のように四つあげている。これらのものは深いところでみなつながっている。講義では、以下の(1)と(2)についてのみ取り上げてみたい。 (1)心の傷 (2)行動主義(自分を駆り立てている内なる衝動) (3)神への不信 (4)内なる暗闇という恐れ (1) 心の傷 ①「心の傷」とはなにか 心の傷とは、ほとんどの場合、人

  • わたしは破れ口に立つ者を尋ね求めた - 牧師の書斎

    【読み】 ヴァーヴァケーシュ メーヘム イーシュ ゴーデール・ガーデール ヴェオーメード バペレツ レファーナイ ベアド ハアーレツ レヴィレティ シャハターッハ ヴェロー マーツァーティ 【文法】 【翻訳】 【新改訳改訂3】 わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。 【口語訳】 わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。 【新共同訳】 この地を滅ぼすことがないように、わたしは、わが前に石垣を築き、石垣の破れ口に立つ者を彼らの中から探し求めたが、見いだすことができなかった。 【岩波訳】 彼女を破滅させまいとして、わたしは彼らの中に、この地のため、わが前に石壁を築き、裂け目に立つ者を尋

    わたしは破れ口に立つ者を尋ね求めた - 牧師の書斎
  • 1