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2008年5月29日のブックマーク (5件)

  • authority pot: 政治家が様々なテーマに対し、どのようなスタンスをとっているかを共有するサービス

    "authority pot"は「政治家が様々なテーマに対し、どのようなスタンスをとっているか」を共有するサービスです。 "authority pot"は政治家のまとめサイトを目指します。 ニュースなどに登場する政治家や著名人がどのような考えを持っているか、知っていますか? あるテーマについてどの政治家がどのような考えを持っているか、知っていますか? "authority pot"はそれらの情報を、投稿によって蓄積するサービスです。 このサービスが、政治に関わる人たちの内心や信条を知るきっかけになれば幸いです。 このサービスが、あなたの身近な問題について、力になってくれる政治家を探すきっかけになれば幸いです。 作業中 API切り出し (検討中) ブックマークレット (調査中) Youtube連携 人物一覧と法案一覧のマトリックス 作業完了 「話題の人物・テーマ」枠 (6/7実装済)

  • 死亡したと思われていた女性、生命維持装置を外してから10分後に蘇生

    ウエストバージニア州の病院で、心臓が3度停止し、脳波も17時間にわたって停止したために死亡したと思われていた女性が、生命維持装置を外されてから10分後に息を吹き返したそうです。何か後遺症でも残りそうなものですが、奇跡的になんの影響もなく、間もなく女性は完治するそうです。 詳細は以下の通り。 ABC News: Nearly Dead, Woman Comes Back to Life Velma Thomasさんは心臓発作の兆候を感じたので、病院に救急車で搬送されました。彼女は心臓が3回停止し、脳波が17時間にわたって停止しました。医者はVelmaさんの命を助けるため、低体温症を発症させてまで体温を下げて脳に刺激を与えるなどありとあらゆる手を尽くしたのですが残念ながら蘇生には至りませんでした。Velmaさんの人工呼吸器は外され、家族はVelmaさんに別れをつげて葬式の準備をするために家に帰

    死亡したと思われていた女性、生命維持装置を外してから10分後に蘇生
  • そんなにカエルを駆除したいのか - 散歩道プロジェクト

    梅雨のはしりである。しばらく前までは大変ににぎやかだったシュレーゲルアオガエルの声が少し静かになり、かわってアマガエルの大合唱が響くようになってきた。気温が高く湿度の高い夜は、カエルの棲む田んぼからかなり離れたところでも声が聴こえるほどの大合唱だ。その大合唱の盛り上がりとともに、おかしなおかしな人間の行動がみられるようになった。 このブログには、ブログを訪問した人が検索エンジンで検索してこのブログにやってきた場合、どういう検索ワードでやってきたのかわかる仕組みがある。そこで、時々、その検索ワードを見ているのだが、ここ一ヶ月くらいで急激に増加したワードがある。それは「カエル駆除」である。中には「カエル駆除方法」とか「アマガエル駆除」などというワードで検索してやってくる人もいる。どうやらカエルの駆除方法を検索して調べているようなのだ。 しかし、どうして駆除したいのか?と考えたときに、やはり、あ

    そんなにカエルを駆除したいのか - 散歩道プロジェクト
    frog78
    frog78 2008/05/29
    オーストラリアかどこかの学者がカエルを絶滅させるとか言ってたような。
  • 人を殺して切断して懲役7年の判決となる社会は、君達が望んだものではなかったか - 法華狼の日記

    渋谷妹殺害事件について、精神鑑定をほぼ受け入れた地裁判決が出た。もともと検察の求刑も懲役17年だったのだが、さらに軽い懲役7年だ。逆に、弁護側の主張よりは重い刑であることも注意しておく。 http://mainichi.jp/select/today/news/20080527k0000e040067000c.html 東京都渋谷区の歯科医宅で06年、長女の短大生、武藤亜澄さん(当時20歳)が殺害、切断された事件で、殺人と死体損壊の罪に問われた兄の元予備校生、勇貴被告(23)に対し、東京地裁(秋葉康弘裁判長)は27日、懲役7年(求刑・懲役17年)を言い渡した。死体損壊罪については無罪とした。 判決は勇貴被告の責任能力について「殺害時には完全責任能力があったものの、死体損壊時には心神喪失の状態にあった可能性が否定できない」と判断した。 公判では、勇貴被告を精神鑑定した鑑定医が「殺害時は心神耗

    人を殺して切断して懲役7年の判決となる社会は、君達が望んだものではなかったか - 法華狼の日記
  • いのちの奪い方 - シートン俗物記

    ずっと昔のことだ。子供相手のボランティアをやっていた時のこと。ある時、キャンプを行って、その夕時にニワトリをシメて料理することになっていた。ニワトリは近くの養鶏場から譲り受けた廃鶏といわれる老鶏。「子供たちにたべる事の大事さを伝える」授業の一環として行ったものだ。 参加した子供たちの親たちは口々に 「命の大切さを教えるために必要なことだ」 「べ物がどうやって手に入れられているのが教えてやって欲しい」 「べるためには、他の生き物の命を奪わなければならない事を伝えて」 と、立派な事を言ってくれたのだった。 ところが、いざ鶏をシメるとなった時、親たちは 「自分は血が苦手なので」 「こうしたことはやったことがないんで、慣れた方に」 「いや、ちょっと出来ないです」 と仰り、 「どうか、先生(私の事)がやって、見せてやってください」 と云い、誰一人として自分でやろう、という親は現れなかった。 み

    いのちの奪い方 - シートン俗物記
    frog78
    frog78 2008/05/29
    命を奪い食べることに正当性があると思えず、感謝の気持ちを持つことも自己満足的内省にしか感じられず、頭を捻っているうちにそのことを忘れ、時々思い出す。僕らは肉汁から背徳の苦味を感じるべきだろうか?