ブックマーク / stdsts.hatenablog.com (18)

  • 他者を巻き込む楽山 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    他者を巻き込む楽山 妄想に巻き込まれた人たち(st対策) 2022-03-18 楽山日記(a) https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12732605498.html 楽山は、私が、以前、批判していた対象のHNを持ち出して、注意喚起?のような記事を書いてきました。悪い噂、あるいは、デマ宣伝のような記事になっています。楽山は、元々、そういうことを書く人なのでしょう。つまり、楽山は、理解できず、弁明できず、言いがかりだけになっています。 半ばパニックかもしれません。こういうときの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は犯罪性が高くなります。今、ネットにおいて、悪質ゆえに、注意・警戒して、かつ、決して近寄ってはいけないのが、まさに、楽山その人です。 前と同様、引用されたコメントは画像で、かつ、楽山の恣意によって選択されている可能性があるので、相手にし

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    fujimonk
    fujimonk 2022/03/20
  • 楽山の詭弁物語2 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    楽山の詭弁物語2 「私の聖書物語」椎名麟三著 2021年03月13日 楽山日記(LD) http://mn266z.blog.jp/archives/28376626.html を改めて批判。 何も知らないし分からないのに、知ったかぶりをする楽山は、学習が成り立たないために、魔法のような宗教の思い込みに走っているのでしょう。共感がないために、理路も情緒も、意味も直観も、そして、真実も、言葉でごまかしてきたのです。 > *私の聖書物語 先日、椎名麟三のを読んでみようと思い立ち、「私の聖書物語」を読んでみた。自分には難しいだったが、共感できるところも多かったので以下にメモしておきたい。 < 楽山は、「メモ」と書くことが多いです。謙虚だからでしょうか、否です。メモだから、責任負わなくていいと思っているのでしょう。そのくせ、言ってることは、偏向が甚だしいのです。 > *愛すること 「 愛という

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    fujimonk 2022/03/15
  • 楽山の暴虐2 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    楽山の暴虐2 『SNS暴力 なぜ人は匿名の刃をふるうのか』毎日新聞取材班著 2021年03月07日 楽山日記(LD) http://mn266z.blog.jp/archives/28306879.html 自業自得の楽山の、居直りの暴虐と謀略です。自らの悪意による嘘と詭弁そして罪と偽善を、全く気にすることなく、正義の味方を気取って書いてくる病質者楽山の、今日も、排泄物が醜いです。まさに、保身のために、理屈っぽく書いているようです。あるのは、自我の欲望だけだと思います。 > ツイッターで書が紹介されているのをみて読んでみたのだが、どうも書は前半と後半とでは若干論調が異なっているようだ。 まず前半では、SNS上の誹謗中傷を問題視し、木村花さん、スマイリーキクチさんら被害者の苦悩の深さを訴えるとともに、加害者の動機を探っている。 < 婉曲的な書き方を得意とし、遠回しの屁理屈で誹謗中傷以上の

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    fujimonk 2022/03/13
  • 昔々のポエムなど - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    昔々のポエムなど ルサンチマン 弱者につのる恨み とも 負け犬の遠吠え とも 負け犬根性 とも それでニーチェという人が 弱者の道徳として キリスト教を否定したらしい また 革命の原動力でもあったと聞く 「神は死んだ」は 「神はいない」と違って 「かつて神はいた」ことになるのか 哲学書なんて読めやしないけど ニーチェの真意は 単純ではないな くらいには思っている では私はというと 「神は死んだ」にも「神はいない」にも 共感とまではいかないが 無視できないものがあって それでいて 空しい独りに同伴する共感の 主イエスが好きになり 神様に祈ることをやめられないでいます。 (2011年03月31日+) 関わり 動物との区別だけで 人が存在するわけではない 関わりが生まれるとき 人称が生まれる 君・彼または彼女 ・・・瓦礫の中にいる遠い人々 関わりがなければ 相手だけでなく 一人称「私」も存在しな

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    fujimonk 2022/03/12
  • 駄々と児戯3 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    駄々と児戯3 事実と価値判断について (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著) http://mn266z.blog.jp/archives/23741147.html 楽山日記(LD) 楽山批判を加筆して再録 他者の批判を平気で無視する楽山の、知ったかぶりの批評家気取りの、独り芝居です。学習しない楽山は、自分と同じと思い込んだ意見を、関心、愉快、と言い、誤読と曲解によって、内実の全く違う事柄について、賛同し、学者と同じレベルであるかのように、自分を高めようとするのです。 > 最近、『宗教的経験の諸相』を少しずつ読んでいるけれども、なかなかに難しいだ。でも自分が関心を持っている問題に触れている箇所もあるので、そんなときは、実に愉快な心持ちがする。例えばこの部分など。 「 提出された事実についての結論は同じであっても、価値の根拠についてはめいめいの精神的判断が異なっているのであるから

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    fujimonk 2022/03/11
  • 汚い読書3 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    汚い読書3 2020年02月11日 理想の世界の存在と現象世界との関係について (『宗教的経験の諸相』W・ジェイムズ著) http://mn266z.blog.jp/archives/23483194.html 楽山日記(LD) 読書という行為にも、ある種の人間においては、汚い、と言わざるを得ないことがあるようです。楽山において、それは明らかであります。 > しばらく積読にしたまま放置していた『宗教的経験の諸相(上)』を開いてみたら、冒頭の原著序に著者の結論は論考の最後にあるといかにももっともな助言があったので、根がどこまでもせっかちかつ単純にできている自分としてはさっそく著者の言う通りにしないわけにはいられず、下巻の後記を確認してみた。なかなかに難解な文章ではあるけれども、三歩進んで二歩下がるようにして文字を追うならば、幸いなことにおぼろげながらではありつつも著者の思想は理解できなくもな

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    fujimonk 2022/02/26
  • 疑い - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    疑い 人間に分かる信仰、どこまで人間に分かるのか、というテーマについて、これまで考えてきたことを書いてみます。 神の性質は、全知全能・絶対完全・永遠不変、などと言葉で表します。これらの性質は、人間には手に負えないものです。人間は、全知ではない、全能ではない、絶対ではない、完全ではない、永遠ではない、不変ではない・・からです。すなわち、人間は、不完全ということです。ゆえに、罪を犯します。 Q.神は、将来起こることもご存じなのか。つまり、未来は、既に、決まっているのか。だったら、何をしても無駄ではないか。 A.運命論的な考え方ですが、招来は決まっているとしても、人間は、それを知らないのですから、折々に、最善を考えて、努力するしかないのです。それが、人間の宿命です。努力しないのは、ただの怠慢であります。それが、全知全能の神に対して恐れをいだく信仰の根拠であり、信仰の動機であります。 Q.神様は守

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    fujimonk 2022/02/23
  • 信仰と確信2 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    信仰と確信2 信仰と確信は対立軸です。信仰の反面教師が確信です。 信仰は仰ぎ、確信は見下ろします。 確信は、信条や信念と似ていますが、人が神の意思と行為についての疑問と不都合から目を逸らして無視するので、自己においても他者に対しても、自らの思考の欠点を無視してゆきます。 確信は、詰まるところ、思い込みを促進する自分信仰なのです。 ※ 一時的な確信は、覚悟であり、一時的であるので固定した確信ではありません。 信仰に信条はない。信仰は疑問を排除しない。 目を見張ることはあり、瞬きはするが、わざと目をつぶったりはしない。 信条と呼ばれるものは、信仰の要となる言葉のヒントとして重要です。信条を覚えて思い込んで信仰が成立することはありません。 信仰は信じるところを論理のようには知りません。人間だからです。 確信は信じこむことの罪を知らない。人間でなくなりつつあるからです。 聖書は神の言葉と言われます

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    fujimonk 2022/02/19
  • 無常の価値2 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    無常の価値2 人間が死にたくなるのは、絶対孤独になって、周りに人間がいなくなるか、周りにいる人が人間と思えなくなって絶望するからです。人間が生きるのは、周りに人間らしい人や関係があって、人間味の共感を味わっていられるからです。 人間味の中に尊い愛があり、即ち、心があり、共感があり、思いやりがあり、それゆえにこそ泣いたり笑ったりが生まれるのです。人間にとって、最も大事なことは、超常ではなく、日常の中にあるのです。そこを疎かにする宗教はカルトといってよいでしょう。 なのに、処女懐妊に、奇跡に、肉体の復活にと、超常の不明を、批判不可として信じ込めば、いろいろな不明を次から次に信じ込んで、心は超常に迷い込んで、神明も不明も分からなくなり、人間性の最も大事なる現実の関わりに鈍感になり、超常の言葉を唱え続けることになるのです。 人間にとって大事なことは、無常なる現実世界に、たくさんの糧(かて)があると

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    fujimonk 2022/02/11
  • 楽山の嘘アピール - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    楽山の嘘アピール 2022年02月07日 また始まった(アマミ氏と遠江氏) 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山 http://mmknky21.blog.jp/archives/13307484.html を批判します。 私は、HS信者とアンチなど、HS関連の遣り取りには、知識が不足しているので関与しません。楽山は、それを知っていて、批判逃れのために、HS関連を書いて、そこに活路を開こうとしています。引用されているツイッターは省略します。楽山には、退散以外に、活路はありません 短い文末の「続きを読む」をクリックすると、別の二人によるツイートが多数並べてあります。楽山は、理路を正して書くことが出来ないので、タイトルの「また始まった」に相応しく、からかい半分で寸評しているつもりですが、何事も他人事で、真摯も気も持っていない遊びが、楽山の筆致です。 楽山は、評論家気取りで、自己の正常と

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    fujimonk 2022/02/09
  • 楽山の自己賛美2 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    楽山の自己讃美2 「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」 (『ヨブ記講演』内村鑑三著) 楽山日記(LD) 2021年02月06日 http://mn266z.blog.jp/archives/27961485.html 楽山が、ヨブを引用するのは、ヨブが正しいのに神に試されたという思い込みがあって、自分もそうだ、自分は正しい、苦難に耐えているぅ、自分は偉いぃ、という自己賛美をしたいためだと思います。執拗に、内村鑑三を、餌にしている楽山です。楽山は、こういうことを、平気でします。 ヨブは、神に試されました。そして、悔い改めました。神以外に寄る辺がない信仰者だからです。楽山は、神に試されたのではなく、だまして快感を得るという自業自得の沼から、おめいているのです。最も神にも人にも憎まれる因業の者です。 > 「第十三講 ヨブ答う 終に仲保者を見る(下)」の要点を抜き出しつつメモ。 第十七

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    fujimonk 2022/02/08
  • 愛も悔いも書き残す - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    愛も悔いも書き残す 8年ほど前に投稿したものを手直しして投稿します。 「聖書語」 前に、解釈信仰、神秘信仰、史実信仰、奇跡信仰、といった言葉を用いましたが、それらはいずれも人が解釈したことを神として信仰するのはおかしいという批判でした。ゆえに人の解釈を通しているので、一括して解釈信仰と呼んでよさそうに思えます。 しかもそれらは解釈した文章的なものだけではなく、すり込まれた観念か体質か習性のように染みついてきます。そこから外れると条件反射のように拒否反応が起こりやすくなっているようです。 ・・「言っちゃいけない」「聞いちゃいけない」の潜在意識 ? ・・ 「聖書語」というものについて前に書きましたが、教会では兄弟でもないのに兄弟と呼び合う。怖いのは、兄弟という呼称そのものではなく、兄弟と呼び合うことによって整った信徒である自分を確かめ合っているかのような雰囲気でしょう。信仰は呼称によって確かめ

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    fujimonk 2022/02/06
  • 無神論について - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    無神論について 世の中には、無駄なことをする人たちがいます。神がいないことを、史実や科学的論理で証明することは出来ません。なのに、史実がどうの、現実の悲劇がどうの、証拠を見せろ、などと、結局、いちゃもんをつけているだけになっているのです。 神は、史実に依存しません。人間の理路に従う必要がありません。癒しと救いを恵まれた信仰者にとってのみ、神は、生ける神であります。信じないのなら、信仰はなく、ゆえに、癒しや救いなどの信仰体験もないということです。 しかし、また、同様に、神がいることを、史実や科学的論理で証明することも出来ません。神は、証明できません。信仰は、証明できません。ゆえに、魂の奇跡と言ってよいのです。神の存在を感じないならば、信じなければよいのであって、神の存在も不在も語ることは出来ません。 信仰は、論理ではありません。信仰は、聖書に表された神と、生きる人との、聖書と祈りを通じての共

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    fujimonk 2022/02/04
  • 偽善者の語り口2 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    偽善者の語り口2 特徴的な詭弁をあげておきます。偽善者との遣り取りで見られた攻撃の言葉 "ですね攻撃" シャロームにおいて顕著です。 (シャロームの言) 1「少しも実践していないようですね。」 2「アレッ st5402さん 妄想癖、虚言癖に加えて、健忘症も加わっているようですね!」 3「まだまだ私に比べてお若いのに・・・」 1,2が、それにあたります。3は、2の後に続けられた文言で、皮肉、当てつけの部類。シャロームの傲慢だけが表れています。わざとらしい丁寧語が、鼻に突きます。 自分が上で、批判者が下だ、という蔑みを向けており、信仰者は、このような嫌らしいことは言いません。信仰者が批判するときには、できることをする、言えることを言う、否は否である、という姿勢を貫くことが必要です。 シャロームにおいては、あと、大仰な讃美、また、讃美の聖句を、だらだらと長く引用してきます。讃美しておけばクリスチ

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    fujimonk 2022/02/02
  • 共感の主 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    共感の主 キリストは、共感の主であります。心貧しい、即ち、心に余計な先入観を持たない人々に信仰を宣べ伝えました。キリストの共感の最終的な結果が、十字架であり、人間の罪を背負って、死という人間の定めを身に負うたことです。信仰は、キリストの共感に反応して、キリストに共感することです。 宗教的には、キリストの時代の人間模様は、今と似たようなありさまでした。権威主義や、教条主義や、大仰な感謝と讃美が横行するのは、いつの時代も変わりないようです。そういう時代に、見逃されやすいのが、人間の良心による共感性、つまり、愛ということになります。 人間は、超常現象の奇跡には共感できません。直面し続ける日常とは違うので、理解も共感も出来ません。日常で、理不尽な目に遭っている人々が、キリストに惹かれるのは、そこに、この上ない共感が表されているからでしょう。それは、今も変わりないと思います。 一部に、福音書の、物や

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    fujimonk 2022/02/01
  • 想うところに3 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    想うところに3 シモーヌ・ヴェイユ 人には想像する自由がありますが、信仰の質は、想像ではありません。また、事実でもありません。信仰は、悲しみを知る心に生まれ、いちばん酷い孤独からの解放を与えます。確定は出来ないが、否定できない真実として受け取って、信仰者が生まれます。ゆえに、神秘と呼ばれます。 人が想い描く人物像は、人格も含めて想い描いた像ですから、その人ではありません。常にその人の偶像を相手にしているようなものです。想うところに人はいないのです。しかし、人は、想い描かれた人の偶像の間違いを、完全ではないが、ある程度、態度や言動で知ることが出来ます。 人間関係は誤解で成り立っているところがありますが、お互いの偶像を修正しながら、不安定ながら、未知に立ち向かって、良かれ悪しかれ活性化してゆくことが可能です。衝突しても学習が可能だからです。 人の像と違って、想い描く神の像の間違いを、導きによ

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    fujimonk 2022/01/31
  • 楽山の虚言2 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    楽山の虚言2 『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』内村鑑三著 2021年01月23日 楽山日記(LD) http://mn266z.blog.jp/archives/27796210.html 楽山の虚言は、そっと懐に滑り込ませるような狡猾さがあります。実際は、総て、反キリストの、作為と悪意の産物です。 楽山は、HS批判を、こそこそと、別のブログを立ち上げてするつもりのようです。自らが、批判されていて、それにまったく答えないままで、無反省・無責任に、別のところを批判をする、などということは、正常なら出来ないことです。 自身の不都合を無視して、平気で、他者の不都合を批判するところに、訂正不能の異常性が表れています。楽山は、批判している側にいるつもりの自分をよく見せるために、自らが批判の対象であることから読者の目を逸らしたいのでしょう。 > 『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、中公

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    fujimonk 2022/01/30
  • アドラー教について(6)3 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

    アドラー教について(6)3 ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン) 2019-05-23  【シカトしろ❗️】言いたい奴には言わせておけ‼️ 加筆修正して再録。 アドラー心理学は、自己中促進カルトだと思います。ゆえに、ブログに書いて、アドラー教と呼んで警戒を呼び掛けています。日人アホ化計画とも呼んでいます。 丁寧語は見せかけで断定や豪語が多いのも、カルトの宣伝に当てはまります。ぴったり当てはまる者がいます。彼は、アドラー教の宣伝者です。やめたようなことを書いていましたが、自己中、無反省、無責任のままです。 > アドラー心理学サロンです。 あなたは他人に言われた言葉、他人にされたことを気にしてしまい、傷付いたことはありませんか? 世の中には価値観や考え方の違いから、とんでもないことを平気で言ってきたり、してきたりする人がいくらでも存在します。 困ったことに、あなたにとっては言葉の暴

    アドラー教について(6)3 - ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)
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    fujimonk 2021/11/27
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