落語界では語り草になっている「小さんvs.談志直接対決」の模様を再現してみます。落語協会会長柳家小さん師匠(五代目)と、落語立川流家元立川談志。師弟であるこの二人が永い仲違いの末に対面をした瞬間、何があったのか。現場に居合わせた私によるルポルタージュです。1993年11月末。その年の春に入門したばかりの私は、兄(あに)弟子のワコール(現・談慶)さんと二人で師匠談志のお供をしていました。つまりカ
世のアイドル好きのみなさん、応援にはお金も時間も必要……と思い悩むこと、ありませんか? 他の人がどんな環境でファンをやっているのかも気になるところ。固定休の方がコンサートや舞台に行きやすい? みんなどれくらい給料をもらっているの? 面と向かって聞けないことも多々あります。そこではてなニュースは、ジャニオタブロガー・あややさんによる企画でアンケート「ジャニヲタと仕事」を実施。9,335人による回答から見えた、ジャニオタに多い職種や年収とは?(編集部) ジャニーズアイドルを追いかけている人は、普段どんな仕事をしているのか。コンサートに行くために休暇はどのように取得しているのか、またグッズやCDを買うために必要な費用として年収はどれぐらいなのか、気になったことはないだろうか。 私は、以前からジャニヲタの皆様がどんな仕事をしているのか気になっていた。ツアーが始まると全国の会場へ飛び回り全ての公演を
『タモリ論』(新潮新書)を上梓してから五ヶ月が経過した。おかげさまで本書は書店に並ぶ前から増刷がかかり、小説家を本業としている私にとって初めてのベストセラーとなった。 反響は予想以上のものだった。タレントやテレビプロデューサー、放送作家といったテレビの作り手側から、お笑いに詳しいと自任するマニアまで、賛否両論の声を頂いた。これまで小説を七冊書いてきたが、身に余るほどの称賛の一方で、貶す人はとことん罵倒するので、デビューから四年、その手の免疫はできていた、と思っていた。しかし今回ばかりは桁が違っていた。ツイッターで見過ごせない誹謗中傷をしてくる人に憤りを覚え、直接相手にはしなくても、それとなく反論したこともあった。小さいな俺と思った。 その間、幾つもの取材に応え、ラジオにも出演した。テレビ局から出演依頼があったが、弱者を嘲笑する、もっとも嫌いなタイプのバラエティ番組だったため断った。
「三波春夫」といえば、『お客様は神様です』というフレーズがすぐに思い浮かぶ方が少なくないようです。印象強くご記憶いただいていることを有難く存じます。 ですが、このフレーズが真意とは違う意味に捉えられたり使われたりしていることが多くございますので、ここにちょっとお伝えさせて頂きます。 三波本人が生前にインタビューなどでこのフレーズの意味を尋ねられたとき、こう答えておりました。 『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。ですからお客様は絶対者、神様なのです』 歌手として歌を歌う、「セリフ入り歌謡曲」や「長編歌謡浪曲」で歴史上の人物や物語を歌い語る、その折の三波春夫の心構えを表現した言
2012年11月12日放送の「伊集院光 深夜の馬鹿力」にて、素人参加型のクイズ番組で、チームのパワーバランスに偏りがありすぎたために参加者が泣きだしてしまうといった惨状に陥ったことについて語っていた。その話題に関連して、島田紳助、上岡龍太郎の役割について語っていた。 伊集院光「全部を肯定はしないよ。全部は肯定しないけど、芸能ってものの中に、毒や悪をちゃんとやれるって人がいないとダメだなって思って」 「この番組を、島田紳助だったらどう切ったんだろうかって思うことと、そこと関係ないところで言えば、色んな異論もあるでしょう。島田紳助さんが含むものに。あと、上岡龍太郎さんだったら、この番組をどうやったんだろうかって思うの」 「その二人ぐらいしか、今この世の中で、テレビで毒を許さないって世の中で、多分、この二人だったら、最初の内のギスギスしたところで、ズバリ言うと思うの。『ギスギスしたらあきまへんわ
上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、1942年〈昭和17年〉3月20日[1] - 2023年〈令和5年〉5月19日[2])は、日本の元漫才師、元司会者、元タレント。上岡劇団座長。 本名は小林 龍太郎。京都府京都市左京区出身。旧芸名は横山 パンチ、伊井 パンチ[注 1]。 その他、講談師旭堂 南蛇(なんじゃ)、落語立川流Bコース高座名・立川右太衛門を持つ。また、作詞家としての別名義にミケランジェロをもじった「三池嵐次郎」(みいけ らんじろう)[3][4]がある。 1959年、「横山パンチ」の芸名で、横山ノック・横山フックとのトリオ芸人『漫画トリオ』として大阪でデビュー。漫画トリオ解消後の1970年代からはピンでラジオ、テレビに出演し、80年代には『鶴瓶上岡パペポTV』(パペポ)や『探偵!ナイトスクープ』などテレビ司会者として活躍。元々は全国進出の考えはなかったものの、パペポでのトークが評判
人気の朝ドラ『あまちゃん』(NHK)の見どころのひとつに、「音楽を楽しめる」という点がある。なかでも、一番の話題は、小泉今日子が歌う「潮騒のメモリー」だろう。これは薬師丸ひろ子演じる女優の鈴鹿ひろ美があまりに音痴すぎて、デビュー曲『潮騒のメモリー』をキョンキョン演じる春子が禁断の”吹き替え”を行う……という展開の末に生み出されたのだが、7月31日にはCD化までされ、オリコンでは初登場2位を記録した。 しかし、いくら何でもアリの芸能界でも、現実では吹き替えなどという危険な行為は行われていないだろう。いや、もしも行われていたら、こんな歌は世に発表されなかったと思われる”音痴女優”たちのレコードが数多く存在するからだ。最近では剛力彩芽の歌手デビューに関して、ネット上で「下手すぎ」「生歌ひどすぎ」とバッシングの嵐が吹き荒れたが、剛力なんてまだまだカワイイもの。そんな音痴女優の名曲を紹介しよう。 も
12/1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31./02
1909年(明治42年)11月29日、山口県下関市関後地村[4](現在の下関市丸山町)に父・久米吉と母・ヤスの四男四女[注釈 2]の末娘として生まれる。元々は裕福な家庭だったが1912年(明治45年)1月に久米吉が病死したのを皮切り、田中家は数々の不運に見舞われ次第に困窮していく(後述)。家の経済事情の悪化により1916年(大正5年)9月に保太郎を後見人に、母と兄3人、姉1人とともに大阪市天王寺村(現在の天王寺区)へ移住した[4]。直後に患った病気療養により長期間学校に通えなかったが、治癒後保太郎が家庭教師になって猛勉強したおかげで、1918年(大正7年)4月に天王寺尋常小学校3年に編入される[4]。 幼い頃から琵琶を習っていた絹代は筑前琵琶の宮崎錦城に弟子入りし、1919年(大正8年)に免許を受けて田中錦華の名を貰うが、小学校で女性教師と諍いを起こして自主退学する[2](後述)。翌192
芸能界勢力分布 誰もが夢を求め、憧れる華やかなる芸能界。 華麗な演技力で見る者を魅了する俳優・女優、まばゆい輝きを放つアイドル、さわやかな笑顔のイケメングループ……。 日常を忘れるそんなトキメキをくれる芸能界だが、特にドラマ業界は大手芸能プロダクションのわずか、ひと握りの数社のみが、限られた出演枠というパイの奪い合いを行い、しのぎを削っている。 人々に夢と勇気を届けるエンターテインメントの世界が実は非常にドス黒く淀み、力を持つ大手プロダクションのみがキャスティング権を強奪し、 「人気俳優を起用したければ、同じ事務所の新人も一緒に使え!主題歌も同じ事務所のアーティストで! そうでなければ、人気俳優は使わせない!!」 と脅してゴリ押し、バーター営業(抱き合わせ販売)で利権をムサボっているのが現在の芸能界だ。 俳優・女優は「演技力がある」「才能がある」からドラマに出られるわけではない。俳優・女優
2012年02月15日19:03 上岡龍太郎より面白い芸人っていないよな Tweet 1:名無しさん:2007/07/03(火) 23:31:58 復帰してくれないかな 22: 名無しさん:2007/07/04(水) 09:28:33 懐かしいな 芸は一流 人気は二流 ギャラは三流 恵まれない天才 上岡龍太郎 12: 名無しさん:2007/07/04(水) 02:55:00 マジに復帰してほしい。上岡さんは天才だ! 13: 名無しさん:2007/07/04(水) 03:24:02 ナイスクでいきなり帰ったんだよな 18: 名無しさん:2007/07/04(水) 09:05:28 最高に面白い芸人ではないけれど、 鶴瓶の面白さをあれだけ引き出せたのは上岡さんの他にない。 鶴瓶と松嶋の絡みを見てると特にそう思う。 19: 名無しさん:2007/07/04(水) 09:15:07 松嶋の面白さを
21日におこなわれた立川談志さんのお別れ会は、落語家や芸能関係者など約1000人が参列し、ジャズの演奏や、東西の落語家によるエピソードの披露など和やかな雰囲気でおこなわれました。上岡龍太郎さんはじめ参列した方々のインタビューを掲載します。 上岡龍太郎さん 一般人になって11年になりますから、こんなん(会見)生まれて初めてです。 談志さんとは出会って50年。きょう大阪から来るとき思い出していたんです。 昭和36年の11月11日、新宿の松竹文化演芸場の一階喫茶店でね、 「柳家小ゑんと申します、お友達になりましょう」と言って(横山)ノックさんに声をかけたのが談志さんでした。ノックさんは驚いて「なんでまた友達に~」と言ったら「私は好きな人とは友達になる主義なんです」といってそれからおつきあいさせていただきましたんです。 芸も笑いもものの見方、分析の仕方、人生の生き方、楽しみ方全部教えて下
サービス終了のお知らせ NAVERまとめは2020年9月30日をもちましてサービス終了いたしました。 約11年間、NAVERまとめをご利用・ご愛顧いただき誠にありがとうございました。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く