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ブックマーク / yashio.hatenablog.com (11)

  • お金を払ってコンテンツを消費すること - やしお

    このエントリは、『はてなブログ×codoc連携サービスのプロモーションのため、はてなからの依頼を受けて投稿しています』。 はてなブログで「ここから有料」やサブスクの機能が利用可能になるとのこと。依頼を受けておきながら、記事有料化にあまりピンときていない。その「ピンとこなさ」のことをあれこれ考えてたメモ。自分がインターネットやブログをどう思ってるんだ、みたいな話にどうしてもなってしまう。 お金を払うもの 普段自分が何にお金を払ってコンテンツを消費しているのかを改めて見てみれば、翻ってピンとこなさがどの辺にあるのか見えてくるかもしれない。 「お金を払ってコンテンツを消費する」のは「そのコンテンツがお金を払う価値がある」と自分が信じているからだと思えそうだけれど、必ずしもそれだけでもない。それにお金を払う習慣がある、払うのが当然だと思っているなど、金銭を支払うのに心理的な障壁や抵抗が少ないかどう

    お金を払ってコンテンツを消費すること - やしお
  • 夢と職業と生活のバランスを若者に諭す人 - やしお

    夢か現実か、という二者択一はよくある話だけど、この前マツコ・デラックスが番組内で高校生に聞かれて、迷う素振りを見せながら答えた内容が、やっぱり誠実な答えだなと思って、大袈裟な言い方だけどちょっと感動した。 あとそれを見た時にあれこれ思ったことも含めて、忘れないようにメモを残しておく。 テレビ番組「マツコの知らない世界」で、「富士山の写真をめちゃくちゃ撮ってる高校生」が出てきた。 年間200日以上撮影しているという。 番組の最後で彼がマツコ・デラックスに、進路で悩んでいると相談した。 写真の専門学校に行くか、海外で色んな写真を撮るか、普通の大学に行くか、の3択で質問していた。 デラックスは、「地元で公務員になって写真を続ける」という選択肢を提示した。 言う前に「夢のないことを言っていい」、言った後に「なんてひどいこと言ってるんだあたしは」のような躊躇ないし逡巡のような発言をしていた。 とても

    夢と職業と生活のバランスを若者に諭す人 - やしお
  • 自分自身をニュースサイトにしない - やしお

    SNSでもブログでも、時事的な事柄・ホットな話題への反射的な言及が自分自身では減ったと感じている。気を付けてそうしているというより、そうすると自分が嫌になる・苦しくなる、という心理的なハードルが上がって勝手にやらなくなってきている。 この「気分」は個人的なものだけでなく、全体の風潮の影響も受けていて、一定の一般性があり得るかもしれない。現時点で「どういう気持ちがあるのか」を書き残すといいかもと思ってメモ。 炎上加担の功罪 「ホットな話題への言及」には利点/欠点の両面がある。 「不正義・不条理で苦しめられた」などの案件が、炎上で是正されるケースもよくある。 企業・行政vs個人で、昔なら個人が一方的に不利益を押し付けられて終わりのケースで、個人が救われたりする。 一方で「実は不正義じゃなかった」案件の炎上に参加して、意図せず加害行為に加担してしまうケースもあり得る。 例えば、草津町議が町長から

    自分自身をニュースサイトにしない - やしお
    gadie_8107
    gadie_8107 2022/05/01
    “「沈黙は加害者への加担」も自己の行動規範として自分に言うのはともかく、他人へ強いるとおかしくなる。” こういうの結構ある気がする、「配慮」とか「価値観のアップデート」とか
  • 逮捕にそなえる人生継続計画 - やしお

    実際に逮捕・起訴された人の事例をいろいろ読んでみると、普通に生活・仕事していてもされる時はされるんだと思う。 痴漢冤罪や荷物すり替えで違法薬物の運び屋にされるなどの巻き込まれケースだったり、もともとルール(法律・運用)が曖昧なグレーゾーンが拡大解釈で突然咎められたり、捜査機関の描いた架空のストーリーの登場人物にされたり、人は犯罪の意識が希薄だったり、色々ある。 逮捕・起訴されると人生に大きなダメージを被る。会社なんかで災害を想定してBCP(事業継続計画)を事前に立てたりするけど、それと同じような感じで、万が一逮捕された場合でも「こうなる」をそこそこ認識して「こうする」を事前に決めておければ役に立つかもしれないと思うようになった。 概要 弁護士選び 逮捕~裁判の流れ 逮捕 逮捕後 留置場・拘置所 取調べ・調書 捜索差押 勾留請求・勾留質問 裁判 世論形成・名誉回復 参考事例・参考文献 概要

    逮捕にそなえる人生継続計画 - やしお
  • リスクの洗い出しと判断のコツ - やしお

    会社で係長的なポジションになって3年近くが経った。先日、副係長というか職長的なポジションが新たに設けられ、30歳前後のメンバーが就いた。折を見て彼らに伝える機会があるかもしれないし、3年やってみた知見を自分の中で一度整理しておきたいと思った。(大手メーカーの製造側に近い部門で働いている、という前提がある。) 自分が苦しくならないようにする 究極的には人が自分でスタイルを確立するしかない。 「こうした方がより良い」と思って行動変容しても、それで自分が苦しくなるなら続けられない。 どうせ正解の型が一意に決まるわけではないし、仮に正解の型があっても自分を完全にはめ込むこともできない。 「自分がやれるようにやるだけ」くらいに思っている方が精神衛生に良い。それで不適格ならしょうがない。 一方で「より良い方法」に寄せる努力も必要で、その間のバランスが必要になる。 例えば自分自身は、人付き合いがすごく

    リスクの洗い出しと判断のコツ - やしお
  • 高卒新人に資産運用を説明する - やしお

    今年入社の高卒の新人と雑談していて「会社の確定拠出年金のこととか何を選ぶのがいいとか分からない」という。集合研修でも制度そのものの解説はあったけどよく分からず、学校でも習わなかったので、漠然としか分からないと言っていた。 それで「自分はこういう理解で、こうしている」を整理して伝えることにしたのでそのメモ。結論としては「長期でインデックス投信」なのだけど、そこに至るバックグラウンド等も含めて説明したいと思った。 前提 そもそも趣味仕事に注力したいので、株や不動産を一生懸命やりたいとは全く思っていない。 自分は普通の会社員で、その道のプロ(銀行員や証券マンやファイナンシャルプランナー)ではない。 大損は絶対に嫌だし、時間を遣いたくない。株の勉強とかもしたくない。 経済システム 現在は「産業資主義」というOSで世の中が運用されている。 このシステムでは「富の総量が時間の経過で増えていく(右肩

    高卒新人に資産運用を説明する - やしお
  • 批評は個人の好みを越えてどのように可能か - やしお

    認識の枠組み - やしお の「違う側面で見ること/豊かであるということ」という節の中で以下のように書いた。 ある楽曲について、対位法的にどうか、和声法的にどうか、リズム構造はどうか……と様々な体系から説明できる。そしてどの体系を適用してその現象を見るかは恣意的である。それだから、ある体系(価値判断)からその現象が否定されたとしても、現象全体を否定するには及ばない。弓の持ち方がおかしかったとしても、そのアニメ全体を否定する必要は必ずしもない。 また、ある体系から見て否定されたとしても、別の体系によって肯定されていることもある。映画の中で「物理的にそんなことは起こり得ない」というようなことが起きていても、映画なり物語なりの論理からそれが明らかに必要であって導かれていることもある。 現象(作品や物事)に様々な体系、網をかけていく。 隙間を埋めて体系をより精緻にすることもできるし、別の体系から語る

    批評は個人の好みを越えてどのように可能か - やしお
  • 炎上しない書き方 - やしお

    ブログを16年もだらだら書いていると「こういうことを書くと怒る人がいるんだ」というポイントがある程度体得できるようになってくる。たぶんライターや編集者も、意識しているか無意識かはともかく、似たような感覚があるんじゃないかと想像している。 ただここで言う「炎上」は、 差別的な言辞を繰り返しながら恬として恥じない 悪質なデマを広げておきながら指摘されても支離滅裂な弁明でごまかす 「自分が何を批判されているか」をまるで理解していない反論を出してしまう といった、人倫に悖る行為や、職業や立場を全うしないことで非難されるような真性の炎上というより、言葉が足りなかったり書き方の下手さで悪印象を持たれて起こるような軽い炎上をイメージしている。ちょっとした書き方の配慮で、「言いたいことは分かるがお前はムカつく」を防いですんなり相手に納得してもらいたいよね、くらいの意味。 違和感を与えない 炎上する、非難さ

    炎上しない書き方 - やしお
  • 本気でハマっていた何かを、「やめてない」という気持ちでやめていく - やしお

    ネットで漫画イラスト小説やブログを書いてた人が、ふっとやめてしまってさみしい、というのはよくある。外側から見ると急にやめちゃったようにしか見えないけど、内側から見るとむしろ「別にやめたわけじゃない」という認識なことが多いんじゃないかと思っている。 はっきり「やめる!」と決意してやめた人は少数派で、「まだやってる」の気持ちは持ち続けたまま、実績としてはやめた状態がずっと続いていく。 自分自身のケースだけど、以前はてなダイアリー/ブログで創作(お話)をせっせと書いていて、その後カクヨムに移った。2005年5月くらいから始めて、2019年3月に終わっている。まる2年以上更新してなければ、外側からは「やめちゃったんだな」としか見えない。でも人は「別にやめたってわけじゃないけど……」と曖昧に思っている。 このズレが、熱心にやっていたことを急にやめてしまうケースに割と共通しているんじゃないかと想

    本気でハマっていた何かを、「やめてない」という気持ちでやめていく - やしお
  • この眼前の、絶望的な40年の差 - やしお

    会社に入ってすごくおもしろかったのは、まったく同じような環境で、同じような数十年を過ごしてきた二人に、取り返しのつかないほどの差がついてる、それを残酷なくらいはっきり目の前で見せてくれる、ってことだよ。 学生のころはせいぜい3、4年ほどの差を目撃するだけだった。それでも「入学したころは同じくらいの成績だったのに、ずいぶん差がついちゃったな」っていう驚きや慨嘆があった。 なのに社会に出たとたん、3、40年で積み重なった差がいきなり目の前にあるんだ! ほんとうに、途方もない気持ちになるよ。 日々その身に降りかかる出来ごとはさして違いもないのに、一人はそこから細かな疑問や発見を一つ一つ丁寧に積み上げていって、もう一人はそれを見過ごして、それか他人にゆだねていった末に、この唖然とするような差があらわになってしまうんだ。 今ぼくには、はっきり思い描いているおじさんが二人いる。どちらも同じ職場で一緒に

    この眼前の、絶望的な40年の差 - やしお
  • 「人間観察が趣味」と言われてモヤッとするあの気持ち - やしお

    このまえ会社の後輩に「人間観察が趣味なんです」と言われた。冗談めかしてではなく断言されて、その場は「へえ、そうなんだ」と平然さを装って答えた。しかし言われた瞬間に感じた心のざわつき、かすかな苛立ちはいったいどこから来たのだろうかと考えている。 まず「観察」のこと。 ここでは「観察する私」と「観察されるお前ら」の間に線が引かれている。「私」が特権的な位置に立つことを前提しているのである。実際には「観察する私」は同時に「観察される私」であって、一方的に「観察する私」でいられるという特権性を成り立たせる根拠はない。 もしそうした話を彼女にしたところできっと「私だって誰かに観察される可能性があるってことくらいわかってますけど」と言うのかもしれない。しかし当にわかっていると言えるのだろうか。 自分は一方的な観察者でいられるのだろうかという、特権性への疑いを当に持ち得ていれば、口を噤むか、せめて「

    「人間観察が趣味」と言われてモヤッとするあの気持ち - やしお
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