ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』(丹生谷貴志訳)をいま読了。映画からストーリーや俳優を抽出できず、作品内にある部分的イマージュに突き刺されつづけ、サイレント・モノクロ喜劇のうごきの奇怪さにもヤラれ、それでもなお罪意識をかんじながら映画に魅了されつづけた幼少期を、「テル・ケル」派の美術理論家が回想した書。プルーストの幼少期にもし映画が誕生していて、その体験を綴ったら、このような本になる、という類推が終始働いた(本書で中心に扱われる映画体験は、占領から解放された第二次世界大戦後のパリの数年)。 スチルやスナップを配し、長いキャプションのような映画イマージュ論をつづる第一部のグラビア的な部分は見事なのだが、具体的な鑑賞作品名を明かさない場合もある、シェフェールが体験した映画イマージュの思弁的な意味をつづる第二部・本論を読んでまずおぼえる感慨は、起動が遅い、ということだった。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く