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精神分析と言語に関するgauquiのブックマーク (2)

  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●つづき、もうちょっと…。 精神分析的な意味での私(シニフィアンネットワークとしての身体)が開かれているというのは、(言語が私のなかで生まれるのではなく)私が特定の言語という環境のなかに生まれるから。私の内側は外側へと裏返って繋がっていて、私とはそのシニフィアン的配置のなかのある一点という「位置」である。だから、シニフィアン的身体は、開放系である大文字の他者(シニフィアンの集合)の内部で、その組み換えによって常に位置が移動し、その位置-意味を固定できない。私の位置は移動しつづけ、私の意味は組み換えられつづけるだろう。 一方、神経系としての私(神経系ネットワークとしての身体)は閉じていて、その位置は移動できない。メルロ=ポンティは、「私の肉」とは、決して「あそこ」と交換することのできない、(物理的な空間や時間に先立つ)根源的な「ここ」のことだと書いている。私とはつまり「ここ」のことであり、こ

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    ●昨日、一昨日から、もうちょっとつづく。 神経系的で自律的な身体とは、有機的な身体というものとも違って、有機・無機の区別と関係なく作動しているシステムとしての身体のこと。もう一方の極である「一つのランガージュとして構造化されている」無意識としてのシニフィアン的な身体が「意識」されることがないのと同様、神経系的な身体もまた、意識されない。ただ、身体の機能になにかしらの障害が生じた時にのみ、それが前景化される。次の引用は、多田富雄が書いた自らのリハビリについての文章。 《もう体は回復しない。神経細胞は再生しないのだから、回復を期待するのは無意味だ。(…) しかし私の中に、何か不思議な生き物が生まれつつあることに気づいたのは、いつごろからだろうか。初めのうちは異物のようにただ蠢いているだけだったが、だんだんそいつは姿を現した。 まず初めて自分の足で一歩を踏み出したとき、まるで巨人のように不器用な

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