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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (212)

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    ●今期の深夜アニメで観たもの。『境界の彼方』『京騒戯画』『キルラキル』『凪のあすから』『コッペリオン』『機巧少女は傷つかない』『ぎんぎつね』。 今期のアニメは「攻めてる」ものが多いという印象。ただその攻めてる姿勢がそのままストレートに「面白い」につながるかどうかは微妙な感じで、もう少しつづけて観ないと分からない。『京騒戯画』『キルラキル』は表現として攻めている(とはいえ、内容を把握することさえ困難なくらい---収束点が見えず破綻一歩手前という感じで---攻めている「京騒…」に対して、「キルラキル」はお話的にはとても単純なバトル物だし疑似七十年代テイストとかもあって分かり易い)、「コッペリオン」は風景表現が攻めていて、一話だけを見るならキャラより風景の方がメインであるようにさえ感じられる。あからさまに「ポニョ」の歌取りである「凪の…」の露骨な性的表現(発情期に入ったとされる少女の膝からあき

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    gauqui 2013/10/08
  • 全能感と無力感/榎戸洋司と米澤穂信 - 偽日記@はてなブログ

    ●『フリクリ』のvol.1〜3までをDVDでまた観て、あらためて傑作だと思う。 ●ところで『トップをねらえ2!』の4話のDVDには、脚家の榎戸洋司のインタビューが収録されていたのだが、このインタビューを聞いていて、米澤穂信が「ユリイカ」の対談で言っていることと、とても似ている感じがした。実際、二人とも全能感という言葉を使っている。 榎戸洋司は90年代中盤以降の日のアニメで欠かすことの出来ない存在で(「セーラームーン」「エヴァ」「ウテナ」「フリクリ」「トップ2」の脚家だ)、米澤穂信もなにがしかの影響を受けているのかもしれない。というか、何も榎戸洋司に限らず、90年代以降のアニメやラノベの多くの作品が、全能感と無力感の間の(両極端の)はげしい振幅を主題にしている。生まれたばかりの赤ん坊は生きてゆく能力をまったく持たず、母親にすべてを依存しなければならない。母親の側は、何もしなければ赤ん坊

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    gauqui 2013/10/05
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    ●『攻殻機動隊ARISE border:1 Ghost Pain』。これはつまらなかった。「攻殻機動隊」をスタッフもキャストも一新した新シリーズとしてつくる、というだけでハードルは相当上がっているはずなのに、「武器横流しに関する軍の組織的な隠ぺい(出来事)」や「知らないうちに記憶を改ざんされてました(仕掛け)」、または「少女の形をした自走地雷(ガジェット)」みたいなありがちなネタばかりで、特にこれといって新しいアイデアも新鮮味も工夫もないし、ビジュアル的なデザインや美術などもあまりかっこよくないし、演出も特に冴えているということもなくて、「攻めの姿勢で斬新なことをやろうとしたけど空回り」ならばまだよいと思うのだけど(「攻殻」なのだからせめて「攻めの姿勢」はみせてほしかった)、「手堅くやってそれなりではあるけどイマイチ」な感じになってしまっていると思う。お馴染みのキャラの昔話だからファンはそ

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    gauqui 2013/10/04
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    ●両国のART TRACEで、シンポジウム「今、ここにある美術批評(誌)」。以下は、ぼくの感想というか、聞いていて勝手に考えたことであって、シンポジウムの内容の正確なレポートのようなものでは全くないです。 「批評」という言葉を使うことのめんどくささというのがあって、ぼくとしてはその言葉はなるべく使いたくないと思っているのだけど、星野太さんの発言を聞いてその理由がなんとなく分かった気がした。つまり、「批評」という言葉にはおおざっぱに言って二種類の意味がある、と。 例えば、ある状況があって、その状況に対して従来なされているもの、あるいは常識的なものとは異なる、新たな、刺激的な、創造的な、革命的な、そういうやり方で問い直しを行い、介入を試みることを「批評的な行為」と言うのだとすれば、それは至るところにあり、昔からあり、今もありつづける。そのような批評は遍在する。 しかしそれとは別に、日という場

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    gauqui 2013/09/29
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    ●『ガッチャマンクラウズ』、最終回。この作品に関しては山のようにつっこみどころがある(ほんとにいくらでもある)とは思うのだけど、しかしそうだとしても、それはそれとして、とても野心的で刺激的で新鮮な、面白い作品だったと思う。宮崎駿が言う「悪人をやっつければ平和がくるという映画はつくらない」という理念を「ヒーロー物において実現する」というとんでもない無理ゲーをなんとかクリアした、みたいな感じ。それによって、物語によって表現可能なものの新しい地平をつくりだしたといってもいいように思う。 ヒーローのオープンソース化(正確にはオープンソースとは言えないのでフリーウェア化というべきか)。それに伴う課題とその乗り越え(に関する希望的展望)みたいな話ともいえる。そういう意味で『南極点のピアピア動画』に近い感じもある。こういう概念は、たとえば今のハリウッドのヒーロー物的な想像力には全くないものだと思う(きっ

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    gauqui 2013/09/29
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    ●『アッチェレランド』(チャールズ・ストロス)の二部まで読んだ。これはすごく面白い。 この小説おもしろさは、物語としてのおもしろさでも、表現や形式としてのおもしろさでもなく、世界観としてのおもしろさだと思う(物語として読むとすると、男女関係や親子関係の話だ、と要約することすらできてしまう)。世界観とは、現実(現実感)が生み出されるを媒介する虚構というか、我々は、世界観と言う虚構を通じて「現実」を構成している、というようなものだと思う。世界観という地の上に、「現実的な妥当性(リアリティ・確からしさ)」が構成される、というのか(とはいえそれは、リアリティを生み出す無意識的な次元で作動する地---とりあえずぼくはそれをパースペクティブと言ってみるのだが---とは違っていて、意識的な次元で作動する地のことだけど)。この小説で世界観は、単純な図式として示されるのではなく、次々と投入され、発展してゆ

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    gauqui 2013/09/25
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    ●科学啓蒙書の翻訳家として有名な青木薫の書いた人間原理についての新書(「宇宙はなぜこのような宇宙なのか」)を読んだ。こので特に何か新鮮な刺激が得られたということはないのだけど、さすがに上手くまとめられていて、おかげで今までいろいろな啓蒙書で読んで頭のなかでごちゃごちゃしていたことがいくらか整理されて、理解の助けになった。 面白い表現が一つあった。古典物理学の決定論的な世界観が、≪決まってしまったことは、なるようにしかならない≫というような世界だと表現されていて、そのような「決定論」に対して量子物理学的な世界観は≪強制的世界観≫だとされ、それは≪禁止されていること以外は、すべて強制される≫というような世界だと表現されていた。 これは、他のではだいたい、古典的な決定論では、一つのことが決まると、因果関係によって他のすべても「一つ」の状態に決まるのだけど、しかし量子論的世界では「一つ」という

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    gauqui 2013/09/24
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    ●まだ完結したわけではないのに、そろそろなんとなく回顧モードになってしまうのだけど、今期のアニメは面白いものが多かった。ぼくには『げんしけん二代目』と『ガッチャマンクラウズ』がとびぬけて面白かったように思われるけど(「クラウズ」はいろいろアラが目立つけど、その「粗い感じ」もまあ面白いと言える)、他にも『有頂天家族』と『銀の匙』がけっこう面白かった(「面白かった」と書いてしまうけど四つともまだ終わってはいない)。『銀の匙』は、きっと原作が面白いのだろうという感じだけど、『有頂天家族』はアニメになったからこそ面白いという感じなのだと思う(どちらも原作を読んでいるわけではないので、「そんな気がする」といういい加減な決めつけでしかないです)。 京アニの『Free!』はいつの間にか観なくなってしまったけど、小川太一演出の回はあったのだろうか(wikipediaをみると、三話と九話がそうらしい、三話は

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    gauqui 2013/09/24
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    ●両国のART TRACEで行われた、座談会「ブラック・マウンテン・カレッジ再考」を聞きにいく。ブラック・マウンテン・カレッジは、いわゆる「アメリカ的なもの」のもつ可能性の象徴のようなイメージとして憧れの感情をずっと持ってきたのだけど、それはある種の神話的なイメージであって、その詳しい内実は実はそんなにはよく知らない。この座談会では、BMCが成立する背景としてあるいくつかの文脈が示され、BMCという奇跡的な場が、それらの交錯として成立していたことが示されていたように思った。 まず、不況による大学教育の保守化と教員のパイの縮小があり、それによって職を失った教員によって自主的に運営される場として成立した(要するに、自分たちの職場を自分で作らなければならなかった)ということ。そして、その理念の根底には、デューイからくるアメリカ的なプラグマティズムの思想(実験的・目的を前提としないプロセス重視)が

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    gauqui 2013/09/22
    ART TRACE座談会「ブラック・マウンテン・カレッジ再考」
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    ●『ジャンゴ 繋がれざる者』をDVDで観た。うーん。なんで多くの人がこの作品を痛快な娯楽として受け入れられるのかがぼくにはよく分からない。観ていてひたすら気が重くなる。アメリカの保守派のおっさんたちが「キーッ」となるようなものを世界的な商品としてつくって流通させてしまうというのは皮肉としては確かに利いているのかもしれなし、そういう意味で「政治的に意味がある」かもしれないけど。 ●例えば、黒人奴隷に対して非道の限りを尽くす人物が、立場が逆転して、黒人から鞭打たれあっさり無残に殺される時、どうしたってスカッとした気持ちというか、溜飲が下がるという感情が起動する。しかしその一瞬後に、自分が「スカッとする気持ちをもってしまった」という事実に対して、そこでスカッとしたことの痛快さよりもずっと深く落ち込むことになる。あるいはラストのヒロインの「してやったり」的な表情を見て「魅力的だ」と感じてしまう--

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    gauqui 2013/09/15
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    ●以下は、レンタルビデオ店の新作の棚の前をうろうろしている時に思いついた、思いつきにすぎないことなのだが、フィクション(ぼくが想定しているのは映画小説で、アニメはまたちょっと違う気がするのだが)では一般的に、ホラーというジャンルにおいては「表現」が突出する傾向があり、ミステリというジャンルにおいては「形式」が突出する傾向があり、SFというジャンルにおいては「世界観」が突出する傾向があるのではないか。ここで突出とは、ある種の現代性としての「新しさ」が受肉される部分ということでもあり、同時にそのジャンル自体の「破綻」に接近する部分ということでもある。これは、ジャンルとしての傾向と言うよりも、たんにぼく自身がそのジャンルに対して無意識のうちに求めているものということなのかもしれないのだけど。 (ここで「表現」とは個々の表現のエレメントの強さや斬新さという感じで、「形式」は作品全体としての構築性

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    gauqui 2013/09/13
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    ●『風立ちぬ』を観てから一か月くらい経つ。この一か月、集中的にというより恒常的にという感じでずっと宮崎駿をDVDで観ている。一日に一時間くらいずつ断片的に観るという感じで。劇場用の長編は一通り観直したし、「ハウル」と「千と千尋」は二回、「もののけ姫」はここ半月くらいで三回観た。 「もののけ姫」について、8月24日の日記で「すごいけどいまひとつ面白くない」と書いているのだけど、観る度に「すごい」の方が強くなってくる。何がすごいと言って、動物の描写がすごい。とにかく、山犬や(オリックスみたいな)ヤックルのフォルムや動きが見たくて何度も観てしまう。そして、「もののけ姫」を観るとまたさらに、犬やイヌ科の動物のフォルムや動きが好きになってくる。 (例えばラストの場面で、サンと共にいる山犬はもはや「神」ではなくなっていて、ただの山犬になっているように見える---その違いを説明抜きで山犬の佇まいだけで示

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    gauqui 2013/09/12
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    ●「ヨハネスブルグの天使たち」と「ロワーサイドの幽霊たち」をもう一度読み返してみた。いくつもの皮肉が互いに緊密に絡まり合うことで、皮肉ではとうてい済まされない何かがたちあがる。個々の要素をひとつひとつ取り出せば皮肉に過ぎないかもしれないものが、絡まり合うと一つの世界(世界観、世界像)というしかないものになる。「ジャララバードの兵士たち」に登場するルイによる「一つの死は悲劇でも百万の死は統計だ、その中間は…」という認識はありふれたものだけど、その中間にあるものがあるとしたら、それはそのような意味での世界観、世界像だということなのかもしれない。 ●「ヨハネスブルグの天使たち」で最も重要なイメージは筒型の高層ビルの屋上から少女型のロボットが毎日落下してくるというものだけど、小説を読んだだけではそのイメージが明確に見えるようには描写されていない。ただ、高層建築だと書かれるだけでどのくらいの高さなの

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    gauqui 2013/09/12
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    ●国分寺のswitch pointで「三人の絵」(荒井麻理子、高橋大輔、天健一)、両国のART TRACEで、益永梢子展、高木秀典展。 ●天健一の作品は、絵画を、基底材(キャンバスや紙とか)があって、その上に描画材(絵の具とか)で描くという形で考えるのではなくて、描かれる色と色、形と形を組み合わせるというのと同じようにして、描かれる物と描く物も組み合わせる、という風に考えてつくられているように思える。 例えば、展示されていた作品は、木の板や紙パレットの上に絵の具が載っているものなのだけど、木の板の上に描くとか、紙パレットの裏に描くというのではなく、木の板と絵の具との組み合わせ、紙パレットと絵の具の組み合わせが、あるタッチと別のタッチ、ある色彩と別の色彩との組み合わせと同様のものとして考えられているように思われた。こういう書き方では分かりにくいか…。 例えば、色のついた紙を切って貼り絵を

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    gauqui 2013/09/10
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    ●『ヨハネスブルグの天使たち』(宮内悠介)を読んだ。 最初の二編(「ヨハネスブルグの天使たち」、「ロワーサイドの幽霊たち」)を読んで、これはすごいんじゃないかと興奮したのだけど、次の二編(「ジャララバードの兵士たち」、「ハドラマウトの道化たち」)で、最初に思ったのとは違った方向への展開に戸惑った。最初にあった、独創的な主題やイメージの提示から、急に通俗的な方向に流れてしまっているように感じられた。それでも、「ジャララバード…」は最初の二つの主題と切り離して独立した小説として読むのならば、力のある充実した作品だとは思った。でも、「ハドラマウト…」はイメージとしてもありがちだし、オチもありがちで、アニメなら割とよくある話という感じがしてしまった(というか、こういう題材を扱っていて、そういう「落とし方」で許されるのだろうか?、と感じてしまった)。そして、最後の「北東京の子供たち」に至っては、質の

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    gauqui 2013/09/10
    『ヨハネスブルグの天使たち』
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    ●昨日までとは空の感じが少し違っていた。 ●『ハーモニー』を読んだのだけど、ぼくには伊藤計劃の面白さはよく分からなかった。確かに、科学や思想における現代的なトピック(生政治とか脳科学とか)をバランスよくまぶしてあるとは思うけど、そこを除くと、とてもありがちなユートピア=ディストピア物語の範疇から出ていないように、ぼくには感じられてしまう。小説としての出来もそんなに良いとは思えない。以下ネタバレします。 ●この小説が最後に示すビジョンは、人間が完全に合理的な判断によって行動するようになれば、そのような判断による、合理的な競争、合理的な抗争、合理的な殺し合い等々は、既に悲劇とも暴力とも言えず、それは、シマウマが草をい、ライオンがシマウマをうことと変わらないし、歯車と歯車が噛みあって時計が動いたり、ゲートを電子が通ったり通らなかったりすることでコンピュータが計算することと基はかわらないと言

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    ●『あなたのための物語』(長谷敏司)を読んだ。 読んでいる間何度か「自分が死ぬ」ということへのリアルな恐怖に襲われた。それは、死を目前とした主人公に感情移入する、あるいは同調する、ということとは違っている。それは、おそらくずっと自分のなかにあるのだけど、普段はそこに蓋をしてできるだけ意識の上には昇らないようにしている領域への通路が、この小説をきっかけに開いてしまう瞬間が何度かあったということだろうと思う。その恐怖は抽象的なもので、実際に身の危険を感じた時にあらわれる動物的な恐怖というのとは違う。あるいは、具体性のある身体的苦痛のイメージでもない。「わたしが死ぬ」ということへの恐怖は、「宇宙には果てがない」と想像する時の恐怖に似ている。あるいは、対角線論法とか連続体仮説とかを知った時に感じる恐怖に近い。矛盾するようだが、「わたしが死ぬ」ということを考える時の恐怖は、「わたしが決して死ねないと

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    gauqui 2013/08/31
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    ●『おおかみこどもの雨と雪』をDVDで観た。これは良かった。ぼくは今まで細田守とはまったく相性が悪かった。『時をかける少女』はどうしても好きになれない(というか嫌いだ)し『サマーウォーズ』もどこが面白いのかさっぱり分からなかった。「ぼくらのウォーゲーム!」にしても、別に……、という感じだったし(「ウテナ」好きとしては、何故あの橋カツヨが…、と思ってしまう)。なので、この作品を観る気はあまりなかったのだけど、最近アニメばかり観ている勢いでなんとなく観てしまったらとても素晴らしかった。 この作品も、子供が生まれる前のプロローグの部分は、「いったいこれのどこが面白いというのだろうか」という懐疑的な(かなり白々とした)気持ちで観ていたのだけど、子供(雪)が出てきて、その子供がそのまま狼に変身してアパートの部屋を駆け回っているカットを観て、その瞬間「きたーっ」という気持ちになって、そこからはもう最

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    gauqui 2013/08/27
    おおかみこども
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    ●キャンバス(F15)に、モデリングペースト、水彩絵の具。 ●『もののけ姫』。改めて、これはすごいな、と思った。ただ、とんでもなくすごいことは確かなのだけど、いまひとつ面白くない。とはいえ、いまひとつ面白くないということをもって否定できるような、そんな程度のすごさの作品ではない、というくらいのすごさがある。これだけのことをやり切れる人はきっと他にはいないし、これだけのものに対して文句をつけられる人もいない。ただただ、圧倒される。でも、やはり、いまひとつ面白くないことは事実だ、ということを付け加えたくはなる。 (ここで、「いまひとつ面白くない」というのは、例えばクオリティが低いとか、あそこの演出がいまいちとか、そのようなことではなくて、あくまで、いつものあの「のってくる」感じが希薄だ、というような、主観的な印象の問題だし、それこそが重要だと思うのだ。) とんでもなく大きな風呂敷を広げて、その

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    gauqui 2013/08/25
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    ●水彩紙に水彩で描いた。 ●『紅の豚』をDVDで観た。これは初めて観た。変なダンディズムとかが満載なのではないかという先入観があって(公開時の宣伝の仕方がそんな感じだった)これまで避けていたのだけど、そういう作品では全然なかった。 他の宮崎作品で言えば『名探偵ホームズ』に近いテイストで、むしろ、宮崎駿が「スタジオジブリで長編映画をつくる人」になって作りづらくなった「素朴な漫画映画への回帰」みたいな感じを志向しているように思われた。 実在する土地(外国)の特定の時代が舞台で、主人公が少年や少女ではなく大人でも、それが(擬人化された)動物であれば、素朴な漫画映画的なフィクションとして成立し得るという計算は、おそらく「ホームズ」の経験から来ているのではないかという気がした。ただ、「ホームズ」では登場人物すべてが犬だけど、「豚」では主人公だけが豚で、それ以外の人物は普通の人間であるという点が違う。

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    gauqui 2013/08/23