2021年8月15日のブックマーク (2件)

  • 広島・原爆の後。黒い雨。|かとうけんそう

    私、加藤賢崇の母である、加藤春江(1929〜2009)が、16歳のとき、1945年8月6日に、広島市で被爆したときの体験を、1987年ごろに振り返った、手書きのノートから、投下直後の様子を書いたもの。2011年くらいからネットで公開していましたが、2021年にnoteにまとめなおしました。↓ 今回は、その前後、8月5日までの様子と、原爆投下から数日後〜数週間後までの記録を。終戦直後の広島の風景にご興味のある方はお読みください。これも一度、ネットに公開していたのですが、まとめ直しました。 文中、終戦の日についてや、長崎については何も言及されていませんが、ほんとに当時は生き抜くこと、目の前のことしか考えられなかった、と母は申しておりました。 ちょっと文中に出てくる人間関係がわかりにくいので整理しておきます。 春江・・文章の筆者(16歳) 正実・・春江の弟(13歳) 敏江お姉ちゃん・・春江の姉

    広島・原爆の後。黒い雨。|かとうけんそう
    geddy
    geddy 2021/08/15
    加藤賢崇氏のお母様の手記
  • 広島・原爆投下の日|かとうけんそう

    私、加藤賢崇の母である、加藤春江(1929〜2009)が、16歳のとき、1945年8月6日に、広島市で被爆したときの体験を、1987年ごろに振り返った、手書きのノートを残したものが数冊ありました。 母の自宅は当時、爆心地から数十メートルの、通りという商店街の中にありました。(おそらく、現在はうずしおというお好み焼き屋のあるあたり) しかし、母は原爆投下の瞬間は、そこから3キロほど離れた「被服廠」という軍服などを作る頑丈なレンガ造りの建物の中で学徒動員で働いていたため、命だけは助かりましたが、3キロ離れていても、こんなことになるのか、と手記を読むと驚きます。(ちなみに、この「被服廠」の建物は、現在も広島市の県立工業高校、皆実高校、という学校の横に残っていて保存されています。) 母が亡くなった後で、2011年頃からテキストに起こしたものを少しづつネットで公開していたのですが、読みやすさを考え

    広島・原爆投下の日|かとうけんそう
    geddy
    geddy 2021/08/15
    加藤賢崇氏のお母様の手記