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都市史に関するgintacatのブックマーク (8)

  • 都市史26 町組改正と小学校

    町組(ちょうぐみ)って何? 京都において町組とは,道路をはさんで形成された町が集まって地域的に連合した自治組織です。16世紀初め頃に形成された原型が,拡大発展を経ながら明治元(1868)年まで続きました。 明治になり,従来の町組は解体・再編成させられ,新時代の行政組織に衣替えしました。これが町組改正で,この時できた町組が現在の元学区(もとがっく)の原型となりました。 明治元年11月に京都府は次のように江戸時代の町組を大きく変えました。 (1)京都の上京(かみぎょう)・下京(しもぎょう)を上大組(かみおおぐみ)・下大組(しもおおぐみ)とする。それぞれに大年寄(おおどしより)を置いて組内の支配にあたらせる。大年寄は府知事が任命する。 (2)親町(おやちょう,古町<こちょう>)・枝町(えだちょう)・新町(しんちょう)の別を廃し,20か町を単位に上京何番組,下京何番組と呼称。組ごとに中年寄・添年寄

  • 都市史25 蛤御門の変とどんどん焼け

    どんな事件 蛤御門(はまぐりごもん)の変は,禁門の変(きんもんのへん)・元治甲子の変(げんじかっしのへん)ともいい,元治元(1864)甲子年(きのえのねのとし)に起こりました。 前年の文久3(1863)年8月18日の政変で,長州藩は京都での地位を失墜しました。その後,長州藩は藩主父子の名誉の回復と京都から追放された尊王攘夷派公家7名の赦免を願いましたが許されず,さらに翌年6月5日には,池田屋事件で藩士多数が殺されました。 このような状況下,長州藩の勢力回復をねらい,三家老(福原越後・国司信濃<くにししなの>・益田右衛門介)が兵を率いて上洛,7月19日,会津・薩摩・幕府連合軍と京都御所(正確には現京都御苑<きょうとぎょえん>)蛤御門・堺町御門(さかいまちごもん)附近で戦い,長州藩は敗北しました。 京都の中心部が激戦地となったため,市中はたちまち猛炎に包まれ,民家や社寺などを焼き尽くす大惨事と

  • 都市史24 天明の大火

    あらまし 天明8(1788)年正月30日におきた,京都の歴史上最大の火災。 鴨川の東,団栗辻子(どんぐりのづし)の民家から早朝に出火しました。団栗辻子はいまの団栗橋(四条大橋の南の橋)のかかっているあたりです。 そのままだと被害は鴨川の東に限られたのですが,火は東からの強い風に吹かれ,鴨川を超えて西へひろがり,それからさらに北と南へも拡大し,2月2日朝にようやく鎮火しました。旧暦では30日または29日が月の最後の日ですから,正月30日,2月1日,2月2日と二昼夜燃えつづけたわけです。 被害は? 鎮火するまで,北は鞍馬口通(くらまぐちどおり),南は七条通,東は鴨川の東,西は千通(せんぼんどおり)までの範囲が焼けました。当時の京都の市街はほぼこの範囲でしたから,京都という大都会が焼け野原になってしまったのです。 この火災で3万7000軒の家が焼け,6万5000世帯が住む所を失いました。御所や

  • 都市史23 宝永の大火

    被害状況は? 宝永の大火とは,宝永5(1708)年3月8日の未明に発生した大火です。油小路通(あぶらのこうじどおり)姉小路(あねやこうじ)下る宗林町の銭屋市兵衛宅から出火 。西南の風にあおられ,禁裏御所をはじめ,北は今出川通(いまでがわどおり),南は錦小路通(にしきこうじどおり),西は油小路通(あぶらこうじどおり),東は鴨川畔にまで火が達しました。 この火災による被災家屋の正確な戸数はわかりませんが,禁裏や公家屋敷95軒,町数417町,家数1万351軒,寺社119か所,大名屋敷21軒が焼失したという記録もあります。 大火の影響は? 宝永の大火は広大な範囲を焼失したため,京都の町並みに大きな変化を与えました。その一つが市街地の拡大です。これは,焼失した禁裏の再建に伴い,公家町(くげまち)を拡張するために,烏丸東側と丸太町北側の町家を,鴨川東の二条川東(にじょうかわひがし,左京区)と内野(うち

  • 都市史21 二条城

    関ヶ原合戦・大坂の陣に勝利した徳川家康が二条堀川の西(現中京区二条城町)に建てた城。慶長7(1602)年5月村越茂助を奉行として着工されました。翌8(1603)年3月には家康が将軍宣下をうけるため上洛入城し,その頃には主要部分が完成していたと考えられています。 二条城は京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営され,建設当初は二条亭とも,二条新御所,二条新屋敷とも呼ばれていました。 元和5(1619)年増築が行われ,御座所・大広間・二の間などが整えられ,二の丸の大部分は現在の配置で建てられていたと推定されています。特に,二条城が今日見るような形で整備されたのは,三代将軍家光(いえみつ)の時。寛永3(1626)年の後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の二条城行幸を契機として,伏見城の遺構などが移され,天守閣を含めてすべてが完成したのは寛永年間(1624~43)といわれています。 寛文2(166

  • 都市史18 聚楽第と御土居

    17世紀初めの「京都図屏風」に描かれた聚楽第内郭の堀跡を附近の現況に重ねた。現在の通りとの位置関係は森島康雄氏の復元案に従った。 聚楽第は豊臣秀吉の京都における邸宅として,内野(うちの,平安京大内裏旧跡)に建築されました。秀吉は,天正13(1585)年関白に任官すると,翌年から聚楽第の造営を始め,同15年に完成しました。聚楽とは「長生不老の楽しみを聚(あつ)」めるという意味です。「じゅらくてい」とも読みます。 聚楽第の構造は,北は元誓願寺通(もとせいがんじどおり),東は堀川通(ほりかわどおり),南は押小路通(おしこうじどおり),西は千通(せんぼんどおり)を外郭とし,内郭には丸を中心に北ノ丸,南二ノ丸,西ノ丸の曲輪(くるわ)が築かれていたと考えられています。しかし,徹底的に破壊され,そのうえ全面的な発掘調査が不可能なので,正確な範囲はわかっていません。 発掘調査の結果,幅30メートルを超

  • 都市史16 町組

    16世紀後半の町組の状況。応仁・文明の乱後の京都は,上京と下京の二つの市街地に分かれていた。それぞれの市街地が拡大し,安土桃山時代には一つの都市になっていた。なお,上図の「二条城」や道路は現況を示している。 室町期に京都の町衆たちの自治・自衛のエネルギーが法華一揆を起こし,天文法華の乱(てんぶんほっけのらん,1536年)で頂点に達しました。その教訓として,自衛や自治に対する関心が飛躍的に高まり,町衆の住む町々の団結やその組織化をさらに推進させました。町組はそのような気運の中で結成されました。 町組が初めて史料にあらわれたのは,天文法華の乱で町々が焼き尽くされた翌年の天文6(1537)年正月のことです。この時,下京の各町組から1名づつ選ばれた代表者5人が,室町御所の将軍義晴のもとに銭二貫百文を持って年賀に出向きました。この時,下京の中組(なかぐみ)・西組(にしぐみ)・巽組(たつみぐみ)・艮組

  • 都市史15 天文法華の乱

    「題目の巷」 法華宗と京都 鎌倉時代末,永仁2(1294)年に上洛した日像(にちぞう)によって,はじめて京都に法華宗(ほっけしゅう,日蓮宗)がもたらされました。 以後,法華宗は日像派をはじめ多くの流派を形成し,応仁・文明の乱(1467~77)前後には,洛中に山だけで21か寺を数えるまでに拡大し,京都は「題目の巷」と称されました。題目とは「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)の七文字のことです。 帰依者の中には公家・武家もいましたが,中心は町衆で,特に土倉(どそう)や酒屋などが信者の中核となりました。 室町後期頃,法華宗は,信者以外からは施しを受けず,また施しを与えないという不受不施(ふじゅふせ)の法理に従い,戦闘的な立場をとるようになりました。そのため,特に山門(さんもん,比叡山延暦寺)からたびたび攻撃を受け,進んで武装するようになりました。 法華宗の武装は,町の自治と自衛のた

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