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日本文化に関するgitanezのブックマーク (106)

  • 能 - Wikipedia

    厳島神社の能舞台 能(翁奉納 春日神社 (丹波篠山市)) 能楽堂にて、1891年。尾形月耕。 能(のう)は、日の伝統芸能である能楽の一分野(能楽の能)。能面を用いて行われる。 江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。 能という語は、元々固有名詞ではなく物真似や滑稽芸でない芸能でストーリーのあるもののことを指す一般名称で、田楽・延年などの能もあったが、猿楽の能がもっぱら盛行したため猿楽の能の略称となった[1][2]。そして1881年(明治14年)能楽社の設立を機に猿楽を能楽と改称したため能楽の能を指す語となったものであり、能楽のうち超自然的なものを題材とした歌舞劇のことで比較的高尚なものである[注釈 1]。往々にして「能楽」と「能」を同義に用いたりする向きもあるが、誤りである[3]。 節では中世に成立した古典の曲目のうち、現在でも頻

    能 - Wikipedia
  • 「はかなさ」と日本人―「無常」の日本精神史/竹内整一: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 視野が狭い人が多くなっているのではないでしょうか。 一手先までしか読めない人。自分の専門分野のことしかわからない人。他人の気持ちが想像できない人。 とにかくすぐ目の前のことしか考えられないし、自分の狭い視野の外にあることを想像しようとしないし、想像できるよう努力したりもしません。 いまできることベースでしか考えることができず、わからないことがあったら単にギブアップするだけで、たとえ1ヶ月くらい猶予があってもその間にわかるために関係するを10冊読むとか、片っ端からネットや人から情報を集めてのりきろうという努力もしようともしません。 さらにやっかいなのは、自分の「できない」はすぐに認めるくせに、他人の「できない」は見逃さないし、できる人にはただひたすら頼るばかり。 なぜ自分で

  • 故に我あり 待庵と星空

    なんのことかわからないかもしれないが、千利休のつくった茶室『待庵』について、あの質素な侘び草庵茶室の、深く重い質感をもつ土壁に『星空』を連想してしまうのは僕だけだろうか。 写真は【ロマン炸裂!感涙天体写真10選】から↑ あの重く、暗い土壁の中に埋混された藁たち(建築的に言うと“藁すさの見える荒壁”と言うのかな)が、僕には満天に煌く星々たちに見えてしかたない。 ※画像はこちらから拝借↑ ※手元の古書「わびと黄金」に掲載されている写真が好き↓ どんな理由であの質素な壁に仕上げたかはわからない。 ただ、時代は黄金が咲き乱れる安土桃山時代だ。 織田信長の南蛮趣味に加え、豊臣秀吉の下品なほど煌々しい黄金趣味が頂点を極めた時代。 そんな時代にあって、千利休はあえての『侘び』の極致を追求した。 僕は『侘び』には『反骨』が含まれているものだと思っている。 禅僧である一休宗純からはじまるその“反骨精神”は、

  • NHKプロモーション - NHK Promotions Home Page

  • 最近買った本 1/16: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 相変わらずを買ってるし、読んでもいるのだけれど、まったく読んだ書評を書く時間がとれません。 せめて最近購入したの紹介でも。 買って読了したもの茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁 日の伝統/岡太郎 前に『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』も読んだけど、『茶室とインテリア』も面白かった。 『日の伝統』は、批評の視点がすごく西洋的に感じました。 現在読書中「はかなさ」と日人―「無常」の日精神史/竹内整一 居宣長/小林秀雄 白洲正子の宿題/白洲信哉 『「はかなさ」と日人』は読んでて、日の古典文学への興味がどんどん増してきます。 『白洲正子の宿題』。これはよい。写真もきれい。ぜひ高千穂に行きたくなった! 作者は以前紹介した『天才 青山二郎の眼力

  • 複数の「古代」/神野志隆光: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 712年に成立した『古事記』と、720年に成立した『日書紀』。ほぼ同じ時期に成立し、内容も神武天皇以下歴代の天皇について述べ、おなじような話を扱う部分が多い2つの「古代」を扱う書物。この2つの書物を前に、著者は「『古事記』と『日書紀』はひとつの歴史を語るものとして見るべきであろうか」と疑問を投げかけます。 この問いに、著者が提示している答えは、NO。 著者は『古事記』と『日書紀』という2つの書物は、それぞれ異なる「古代」を記述したものだという考えを、『古事記』や『日書紀』に関する知識がそれほどない僕が読んでも理解できるよう、わかりやすく提示してくれています。 『古事記』と『日書紀』まず、年始の「「間」のデザイン」というエントリーでも書いたように、日は古来、文字を

  • なぜデザインなのか。/原研哉、阿部雅世: DESIGN IT! w/LOVE

    すべての人工物は道具であるはずです。しかし、それが何の道具かがこれからの問題になるのではないか。 原 空いた手で棍棒を持つのは自然だけれども、たとえば川に行けば、2つの手を合わせて水をすくって飲んだはずです。それが器の始原。器という道具の原点、原型です。だから、「棍棒」と「器」。道具の始原は2つあると思うんです。 「棍棒」と「器」という道具の2つの始原。 「サーフェスの変形だけが人生である」というエントリーで紹介しましたが、アメリカの生態心理学者であるエドワード・リードによると、考古学の史料で新石器時代から人類の歴史を何万年かたどると、ずっと人の周囲にあったのは「容器」「棒」「スポンジ」「くし」「叩き切るもの」「楽器」「ひも」「衣服」「装飾品」「尖ったもの」「 縁(へり、edge)のあるもの」「顔料」「寝床」「火」などの14種類のものだっただそうです。そんな14種類のものが人間の暮らしを支

  • 見立てという方法とともにある日本: DESIGN IT! w/LOVE

    これは読んで、なるほど、と思いました。 装飾には、教養が必要ですが、現代のデザインには、文化人類学的な発想が非常に少なくなってしまいました。ファンクションが勝ちすぎています。 西林克彦さんが『わかったつもり 読解力がつかない当の原因』で書いていたように、文脈がわからなければ「わからない」のです。「わかる」ためにはある程度、記憶としての教養の蓄積が前提となります。目の前で見たものが自分の中に蓄積された記憶の文脈とつながってはじめて「わかった」となる。「そこにどのような意味があるのかという視点が加わると、突然、別のものが見えてきます」と内田繁さんも言っているのはそういう意味でしょう。そして、教養がないから現代人には装飾の意味がわからない。そして、現代のデザインからは装飾が消えてしまうのでしょう。シンプルがいいなどといいつつ、単に装飾、飾りのもつ意味を読み解く力が退化しているだけかもしれません

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  • 「間」のデザイン: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 あけましておめでとうございます。 今年の書初めはこんなエントリーから。 「間」についてです。 「間」は日独特の観念だといわれています。外国人に「間」を説明するのはなかなかむずかしいといわれます。「間」は説明するのはむずかしいけれど、たいていの日人は「間」を程度の差はあれ、理解しているはずです。 だから、「間」に関する言葉がたくさんあるのでしょう。 間抜け間延び間がわるい間をもたせる間違う間に合う間合い間際間怠こしい(まだるこしい) など。 昨年の流行語に「KY」なんてのがありましたけど、空気は読めなくても、間はわかるのかな。ここに挙げた言葉のリストを見ると、結構、間を読むのも大変だろうなって思います。当に間違ったりしないようにしたり、まだるっこさを他人に感じさせないよ

  • 「生活文化のアップデート」につながるデザインの方法についていろいろ模索中: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 いま、何にいちばん興味があるかと聞かれたら、迷わず「方法」「作法」「やり方」と答えるでしょう。 ここ最近書いたエントリーでも下記のとおり「方法」「作法」「やり方」について書いたものが多いのもそのせいです。 「考える」方法を学ぶクリエイティブな仕事とは?その方法とは?「創造的な仕事」に求められる7つの作法デザインの方法:ブルーノ・ムナーリの12のプロセスの考察(a.概要)企画設計=デザインには学べば覚えられるやり方がある 発端になっているのは「動きが意味を生成することと茶の湯における作法の関係に関するメモ」というエントリーあたりだと思います。 そこではこんなことを書きました。 動きが物に情報という意味を生じさせ、経験という価値を生じさせる。それゆえに一座建立という一期一会の出

  • http://www.kougei.or.jp/crafts/1107/special/mono1.html

  • 天才 青山二郎の眼力/白洲信哉: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「すべての研究は問題から始められねばならない。研究が成功するのは、問題が妥当な場合に限られるのだ。そして問題が独創的である場合に限って、研究もまた独創的でありうる」とは、マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』のなかの一節です。 社会において研究が価値をもつためには、どこかしらに独創性がなくてはいけないはずです。独創性に欠ける研究は、誰か別の人も同時に行っているという意味で市場における希少性に欠けてしまうのですから。 研究においても独創性をもつことが必要であるという意味では、昨日の「リサーチ・マインド:みがき・きわめる・こころ」でも「断片的な情報、ハウトゥ型の知識が氾濫する現代社会において、情報を自らの手で獲得し、分析」することが必要だという「島国際学院大学 現代社会学部の教

  • リサーチ・マインド:みがき・きわめる・こころ:DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 そこにリサーチ・マインドはあるのか? ここ数ヶ月間、僕の意識をそんな疑問がよぎることがときどきあります。 ここでいうリサーチ・マインドは、日語にすれば、探究心あるいは研究魂となります。また、リサーチはもちろんR&DのRの部分でもあります。 ものづくりにこころや魂がこもっているかが問われていいように、リサーチにも同じようにこころや魂が問われていいと僕は思っています。いや、問われるべきだろうと思います。 研究や調査というと、そんなもの何も社会の役に立つものを生み出さないじゃないかと考える人もいるでしょう。いや、そこまでいかなくても研究や調査から社会的に役立つものが生まれる確率はあまり高くないとか、それには時間がかかるとか感じている方がほとんどじゃないかと思います。 だったら、

  • 千利休/清原なつの: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 清原なつのさんの『千利休』は、16世紀初頭に自由都市として栄えた堺に、ととや(魚問屋)の子として生まれ、北向道陳に「台子の茶」「書院の茶」を、武野紹鴎に「わび茶」「草庵の茶」を教わり、織田信長、豊臣秀吉に茶頭として仕えた、千利休の生涯を描いたマンガです。 僕はこのマンガを読んで、デザイナーとしての千利休、そして、デザインと時代や経済というものについて、あらためて考えさせられた気がします。 茶の湯への興味、侘び数寄への興味松岡正剛さんの『花鳥風月の科学』や『日数寄』、インテリアデザイナーで茶室のデザインなども手がける内田繁さんの『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち/内田繁』、岡倉天心の『茶の』、そして、利休の跡をついで茶の湯の革命をいっそう広げた古田織部を題材に描いた山

  • 日本数寄/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 松岡正剛さんの書かれたを読んでいると、その背後にシステム思考が存在していることに気づきます。松岡さんのシステム思考は、『システムの科学』を書いたハーバート・A・サイモンの視点にさえ通じるものがある。 複式夢幻能は世阿弥や観世長俊などの作家がつくったシステムであり、それをリリースできるのは演能者たちだけだった。そこにはだれもが参加するというわけではなかった。 (中略) ところが、能楽よりあとに出現してきた茶の湯などでは、そこにだれもが主客を入れ替えながら入っていけるようなシステムになってきた。しかも、床の間には各種の情報メッセージをもった掛け物や花や置き物をアドレスできるようになっているし、茶道具のひとつひとつにも由緒由来というデータベースがついていて、亭主や客人はこれを売

  • 「主」と「客」の非対称性:なぜ、おもてなしが必要なのか?: DESIGN IT! w/LOVE

    「おもてなしの姿勢:「主」と「客」」や「デザインとこれからの時代の経営課題についての一考察」、「まことのこころ、数寄のこころ」などのエントリー、ここ数回続けて、おもてなしや「主」と「客」の非対称性などについて、ごちゃごちゃ書いています。 ところで、なぜ、おもてなしが必要なのか? それはね・・・。 職人は、それがどんな職種であれ、客の奴隷である。そして客には「潜在顧客」も含まれる。すなわち素人である。 そう。職人・専門家はすべて客の奴隷です。これこそ、まさしく「主」と「客」の非対称性です。 客をもてなす気はあるの?職人として客を自らの領域に招いた以上、客をもてなすのが主人の役目です。 「口が悪い職人」とかいうイメージがありますが、それは「まことのこころ、数寄のこころ」でも書いた数寄の精神を極端に広げた上で、それが粋なものだという「奇」の精神の系譜の上で成り立っていることを忘れては成り立ちませ

  • まことのこころ、数寄のこころ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 たまには、ちょっと軽めのエントリーも。 古代以前の上代の日を支えたコンセプトは「まこと」であったといわれています。 「まこと」とは真事であり真言です。「真」という言葉は、究極的な真なるものをさすものだったようです。いまでも真剣、真理、真相という言葉に使われますし、真面目や真に受けるという風にも使われます。 いずれにせよ、上代の日、古代初期の日では「真」という言葉が最高の概念、中心的な概念として用いられていたそうです。 まぁ、なんとなく納得する話ですよね。 「真」は「二」を意味していたところが、この「真」という概念、もうすこし踏み込むと非常に興味深いものなのです。 この「真」というコンセプトは、ここが注目すべき点なのですが、なんと「二」を意味していたのです。おまけにその

  • おもてなしの姿勢:「主」と「客」: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「ワークショップ形式で楽しくプロジェクトを進める方法」や「コラボレーションにおける"仮設の場"の活用」などのエントリーで、ワークショップ形式による協働作業の可能性について書いています。 ワークショップのような協働作業においては、何より場づくりが大事だというのは昨日も書いたとおりなのですが、それに関連して「おもてなしの姿勢」みたいなことについてちょっと考えはじめました。 普段、自分がやっていることについて、あらためて「ワークショップ形式で楽しくプロジェクトを進める方法」というエントリーに書いてみて、「あっ、なるほど、おもてなしの姿勢が重要なんだ」と気づいたわけです。 「おもてなしの姿勢」ということについて考えるにあたり、まず思ったのは、当たり前といえば当たり前なのですが、おも

  • 花鳥風月の科学/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    現代では、「景気」は経済社会における儲かる/儲からないといった意味でのスピリットやエネルギーのみを示すようになり、「経営」は儲かるか/儲からないかを左右する視点でのみコンポジションをマネジメントすることを意味するようになったということでしょうか。 金銭的な豊かさのみが追求されるようになって、風景のなかに「わび」や「さび」を感じ取る余裕も失ってしまったということでしょうか。そう考えるとちょっと寂しい気がしてきます。 日文化におけるイメージの起源と変遷松岡さんは「風景というものは人々の見方が決定してきたもの」だと書いています。見る人の見方がそれを「風景」と認めたり認めさせなかったりするという意味で。 その見方は、そこに景気が盛られているかどうかを判断することです。どこを景色の良いところと決めるかということ。すなわちどこを「名所」と決めるかということは、美意識や表現感覚が景色の動向と合致できる