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cultureに関するgitanezのブックマーク (38)

  • 声だから空: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、「断捨離」 なんて言葉があります。もともとはヨガの行法哲学「断行・捨行・離行」をもとに生まれた言葉だそうですが、いまは入ってくるいらないモノを「断」ち、家にある無駄なガラクタを「捨」て、モノへの執着から「離」れて、ゆとりのある生活を手に入れるといったライフスタイルを指す言葉として使われています。 もともと江戸期あたりまでの日の暮らしが家のなかに家具などのモノを置かない生活であったことは、以前に「茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁」や「普通のデザイン―日常に宿る美のかたち/内田繁」などの内田繁さんの著書を紹介するなかで話題にしてきました。 「断捨離」というライフスタイルは、明示以降に格的に西洋的近代社会生活を取り入れるようになり、襖や暖簾などの仮設的な仕

  • 作法は急に作れない: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 今日、こんなTweetを見かけた。 半そでワイシャツって、すさまじくその人をオヤジに貶める気がする 確かに。 でも、「確かに」と思う一方で、それは日人に限る、ではないだろうかとも思う。いや、アジア圏は全般的にそうなのかもしれない。 一方、欧米人には半袖シャツを格好よく着こなしている人が少なくない。アメリカ人なんかは実に格好よく半袖シャツを着る。ワイシャツ、カジュアルシャツ問わずだし、スウェットすら半袖だ。 これを体格の問題というのはやさしい。 でも、それだけではないはずだ。それとは別に着方の問題があると思う。サイジングや洗い方、アイロンをかけるか否かなどの全般で、どう着れば格好よくなるかがまだ日人は半袖シャツの着方をわかっていないということもあるのだと思う。 サラリーマ

  • 下剋上と文化の平民化(デザインの誕生6): DESIGN IT! w/LOVE

    侘び茶の祖といわれる村田珠光(1423-1502)は「此道の一大事ハ、和漢之さかいをまきらかす事、肝要肝要」といいました(「此道の一大事ハ、和漢之さかいをまきらかす事」参照)。それまで中国や朝鮮のものを名物としてきた茶の世界で、和物にも良さを見出し「和漢之さかいをまきらかす」ということで、唐物と和物を同じように使うことを大事にした。それが千利休の茶にも、その楽茶碗にもつながっていきます。 しかし、なぜ応仁の乱を境に、日文化の「中国離れ」が起こったのか。 それは具体的には、どのような「中国離れ」だったのか。 今回と次回にわたっては、そのあたりをすこしずつ紐解いていこうと思います。 内藤湖南さんは、一条禅閣兼良という人が応仁の乱について書いた書物から「左もこそ下剋上の世ならめ」という言葉を引き、「最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する、もっとも烈しい現象」が下剋上だと考える必要があると書い

  • 薔薇十字の覚醒―隠されたヨーロッパ精神史/フランセス・イエイツ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 薔薇十字友愛団。 フリーメーソン同様、誰もが一度くらいは耳にしたことがあるであろう秘密結社。 17世紀初頭のヨーロッパに突然あらわれたこの秘密結社は、通称『薔薇十字宣言』と呼ばれる出版物―具体的には、1614年の『友愛団の名声 あるいは 薔薇十字のもっとも気高き結社の友愛団の発見』と、1615年の『友愛団の告白 あるいは ヨーロッパの全学者に宛てて書かれた、薔薇十字のもっとも立派な結社の称えられるべき友愛団の告白』という、ともに長いタイトルをもった、ドイツで出版された2つの小冊子―によって、「魔術(マギア)とカバラと錬金術(アルケミア)」を原動力とした独自のユートピア思想に基づく新時代の幕開けを高らかに告げた。 書の著者フランセス・イエイツに関しては、昨年末に「記憶術/フ

  • 遊ぶ日本―神あそぶゆえ人あそぶ/高橋睦郎: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「ルネサンス様式の四段階―1400年~1700年における文学・美術の変貌/ワイリー・サイファー」、「フォークの歯はなぜ四になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー 」に続き、年3冊目の書評。 今日、紹介するのは、高橋睦郎さんの『遊ぶ日―神あそぶゆえ人あそぶ』。 これは大傑作。 僕はこれを読んで、情報コンテンツがどんどん無料化していく時代において、なぜ「遊び」の要素をもった情報コンテンツのみが有料でいられるかだったり、ニンテンドーとソニーの差って「遊び」に対する姿勢からくるんだろうな、と思ったりしました。 遊び、大事です。 遊びがわかってないと、これからの時代、やばいなと思わせる一冊でした。 カミアソビこのは『神楽歌』のこんな一節からはじまります。 汝(まし)

  • フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 以前から読みたかったヘンリー・ペトロスキーの『フォークの歯はなぜ四になったか 実用品の進化論』が文庫版にて復刊されます(1月9日発売です)。 そして、「読みたかった」この書評を発売前のこの時点で書いているのは、実は文庫版出版にあたり、光栄にも僕が巻末の解説を書かせてもらったからです。 ここに構想(デザイン)という考え方が登場する。Oxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出するのは一五九三年である。フォークはそんなルネサンスの文化の雰囲気のなかで登場し各国で使われるようになったのだ。それは単なる偶然の一致ではない。 ヘンリー・ペトロスキーの著作に関しては、このブログでも以前に『失敗学―デザイン工学のパラドクス』(書評)や『

  • 古代研究―1.祭りの発生/折口信夫: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 世の中、お盆休みの真っ只中でしょうか。僕自身は普通に働いていますが。 そういうタイミングだからこそ、このを紹介しておこうと思います。こういうタイミングにでも乗っておかない限り、いつまでたってもこののことを書けなさそうな気もしたので。 紹介するのは、折口信夫さんの『古代研究―1.祭りの発生』です。 さて、時期的にはいまは夏祭りの時期でもあるでしょう。 ただ、この夏祭り、実は四季の祭りのうちでは一番遅れてできたものだそうです。 もともと古代においては四季の祭りといえば、秋祭り・冬祭り・春祭りしかなかったといいます。 しかも、その秋祭り・冬祭り・春祭りは、なんと最初は一晩のうちにすべて行われていました。大晦日の宵から秋祭りをはじめ、続けて冬祭りを行い、次の元旦の朝が明けると春

  • 日本の食糧事情のほうが「残念」: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 料を自給しえている国は外国の干渉を排除することができるすこし前に「民俗学の旅/宮常一」でも『民俗学の旅』のなかの次の一文を紹介しました。 一人一人がそれぞれの立場で平和のためのなさねばならぬことをなし、お互いがどこへいっても自分の是とすることを主張し、話しあえる自主性を持つことであり、周囲の国々の駆け引きに下手にまきこまれないようにすることであろう。そしてそれを農民の立場から主張していくには、料の自給をはかることではないかと考えた。料を自給しえている国は外国の干渉を排除することができる。それは今日までの歴史を見ればおのずから肯定できる。 こう書く宮さんは戦中から、敗戦後の日糧事情を考えて、各地の農家の協力を得ようと各地を奔走するわけです。 宮さんは別の

  • 芹沢銈介の文字絵・讃/杉浦康平: DESIGN IT! w/LOVE

    芹沢銈介さんは、日民藝運動にも参加した染色作家で、型絵染(布の代わりに紙を型紙で染めたもの)の人間国宝にもなっている人です。その芹沢さんの作品には文字を主題にした作品も多い。 例えば、下は「山」という文字を主題にした2つののれん作品。 藍色ののれんに染めだされた山文字には木が生え、雲がたなびいています。 雲は雨を降らし、木々などの植物を育てます。それが山という文字を主題とした絵のなかに端的に表現されている。 こうした芹沢さんの文字絵作品の魅力を語ってくれるのは、20年以上にわたりアジアの人びとが生み出した造形美に着目し、さまざまな形(例えば、前に紹介した『宇宙を叩く―火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き』など)で紹介してくれている杉浦康平さん。 杉浦さんには、昨年末に出版された『文字の美・文字の力』というもありますが、書 『芹沢銈介の文字絵・讃』でも芹沢銈介さんののれんや屏風、ときには着物

  • 文化が「用」と「形」を媒介する: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨夜の「日語ということばを使う日人」に引き続き、6/18発売予定の『デザイン思考の仕事術』のボツ原稿より・・・。 人と物との関係でも、人間同士の関係でも、そこに親しみをもった接点が生まれるためには、その間に何がしかの知覚可能な媒介が必要になります。それは言葉であることもあれば、音楽や絵だったりすることもあれば、デザインされた物であることもあるでしょう。 そうした接点の媒介になる物には何らかの機能をもっているということもいえるでしょう。機能あるいは用途。柳宗悦さんの「用の美」の話はしましたよね。「用途を離れては、器の生命は失せる」と柳さんは『工藝の美』に書いています。日常使いのために制作された器にこそ美は宿るのであって、茶人の趣味にあわせて作られた器は美から離れると柳さん

  • 2009-04-18:髪を切り盆栽の手入れをする土曜日:DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 今日はひさしぶりに髪を切りにいきました。 10時に起きてご飯をべたあと、「マーケティングとユーザビリティに対するデザイナーの失望」というエントリーをさくっと書いて出かけ、13時の予約に間に合いました。 毛先がかなり傷んでいるといわれ、3、4cmほど切りました。 そのくせ、パーマをかけました。くりくりです。 その後は原宿から渋谷へ歩きました。 なぜか、さらに渋谷から恵比寿まで歩きました。 むかしはよく歩いていましたが、ひさしぶりに歩きました。 歩く道すがら、つつじが咲いているのを見かけました。 写真も撮りましたが、気に入らないので非掲載。 植物の成長と手入れ、そして、文化ところで、先週の日曜日に紹介した梅の盆栽(写真左)ですが、1週間もしないうちにこんなに伸びました(写真右

  • デザインと読解力(文章に書かれたこと/書かれていないことを読み解く): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 小学生の頃、国語の授業で教科書に載っている話を読んで、そこに出てくる登場人物が「何故そう思ったのか」とか「どうして、そんなことをしたのか」などという質問をよくされた。テストでもそういう問題があったが、それって意味あるの?と感じていたものだ。 でも、最近、それって実は重要だったんだなということに気がつきました。 それって文章に書かれた状況を俯瞰しながら登場人物の行動とその背景にあるものを構造的に理解するということなのだから。 そう。それはデザイン思考でも「利用状況の把握」という点では欠かせないスキルです。デザインサーベイを行う際には5W1Hで利用状況を捉え明記するという作業が必要になる。 誰が、いつ、どこで、何を、どのように行ったのか? また、それは何故そうしたのか? 特に何

  • デザインと文化、あるいは、フォルムとファンクション: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 前に『ふすま―文化のランドスケープ』を紹介した向井周太郎さんの『生とデザイン―かたちの詩学1』に収録されている「モダン・デザイン」という論考は、モダンデザインと言語、文化、機能と形といったものの関係を考えるうえで、読んでいて「なるほど」と思ったので、おすそわけ程度に。 詳しくは各自、をお読みになり、それぞれが思考を積み重ねてみてください。 アルファベットと西欧合理精神まず、向井さんは「モダン・デザインの思想は西欧の歴史そのものの固有性に内在する」という、当たり前ながら忘れられている問題をきちんと捉えることの重要を指摘しています。 前に柏木博さんのを紹介した際にも書いたことですが、モダンデザインには地域や民族、階級などに縛られずに人びとが自由にものを選べるようにするユニバ

  • 「知る力」よりも「観る力」: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 『手仕事の日』を紹介した昨日のエントリーでは、ひとつ紹介し忘れた一文があったことに気づきました。 それは次のような一文です。 吾々はもっと日を見直さねばなりません。それも具体的な形のあるものを通して、日の姿を見守らねばなりません。そうしてこのことはやがて吾々に正しい自信を呼び醒ましてくれるでありましょう。 物を通して日の姿を見る。物が人びとの生活を反映する。昨日紹介したなかにも「一国の文化はその国民の日々の生活に最もよく反映されます」との一文がありました。 すこし前に「自分の好みを知るということが結局自分を知ることなんだと思う」というエントリーも書きましたが、物の好みを知ることが自分自身を知ることであるように、物を見ることそのものが日文化の有り様を理解することに

  • 手仕事の日本/柳宗悦: DESIGN IT! w/LOVE

    なんて淋しく切ないなんだろう。 このはかつて存在した日というものの遺書のようです。 そして、最初に書いておきますが、このはこの国でものづくりに関わるすべての人びとが一度は読んでみるべき一冊だと思います。 私どもは西洋でなした過失を繰返したくはありません。日の固有な美しさを守るために手仕事歴史を更に育てるべきだと思います。その優れた点をよく省み、それを更に高めることこそ吾々の務めだと思います。 それにはまずどんな種類の優れた仕事が現にあるのか、またそういうものがどの地方に見出せるのか。あらかじめそれらのことを知っておかねばなりません。このは皆さんにそれをお知らせしようとするのであります。 このに関しては1つ前のエントリー「模様を生む力の衰え」でもすこし取り上げましたが、以前に『工藝の道』を紹介した日民藝運動の創始者・柳宗悦さんが、大正の終わり頃から約20年をかけて日全国を

  • うつぼ舟I 翁と河勝/梅原猛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 日の中世史がおもしろい。 もちろん、おもしろいと感じるのは、僕自身がそこに関心をもっているから。特に芸能民を中心とした職能民についての歴史、それに関連して市場や座が生まれ定着した室町期の歴史にとても関心があります。 いかにして僕らの歴史から断絶した感のある現代を、そうした歴史的な流れに接続するか。それが現在の日が抱えた大事な課題なんじゃないでしょうか? 既存の権威の崩壊に即した民衆の自治のはじまり最近では、網野善彦さんの『日歴史をよみなおす』や『無縁・公界・楽』、『異形の王権』だったり、昨年末では、内藤湖南さんの『日文化史研究』や『東洋文化史』を紹介しましたが、室町期には、いまの日につながる大きな社会の転換が起こっている。 その転換は一言でいえば、既存の権威の崩

  • 日本の歴史をよみなおす/網野善彦: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 日歴史をよく知らない人ほど、その歴史に対して漠然としたイメージをもっていたりします。 例えば、 日は古くから農業中心の社会で、稲作を中心に据えてきた日の人口の大部分は農業民で、多くの村は農村だった商工業民は農耕民より身分が低いものとされ、芸能民を含む非人は賤視されてきた昔は識字率が低く、一部の階層の人しか文字を読むことはできなかったかつては村などの共同体単位で自給自足の生活をすることが多かった明治期の開国において日は一気に資主義化、産業主義化を果たした などなど。 でも、このを読むと、こうしたイメージがまったくの想像の産物でしかないことがわかって唖然とします。 そして、そこからはまったく別の日のイメージがそこには浮かび上がってくる。 日の村の四分の三が室町

  • 異形の王権/網野善彦: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 このは中世において「異類」または「異形」と呼ばれた人びとにスポットをあてています。 例えば、中世、河原で行われた罪人の処刑の執行を実際に行ったのは「放免」と呼ばれる非人たちでした。「放免」は、彼ら自身が前科のある者でありつつも、その罪に対する罰則を文字どおり免れた放免囚人で、検非違使庁の下級刑吏として犯罪者の探索・捕縛・拷問・処刑を職能とした人びとです。彼らは口髭、顎鬚を伸ばし、特殊な祭礼時や一部の女子にしか許されなかった綾羅錦繍、摺衣と呼ばれる派手な模様のある衣服を身につけていたといいます。 また、牛車に付き添って牛の世話をする牛飼童は、成人しても童形をした人びとで、烏帽子をつけず髻(もとどり)を結わず垂髪、口髭や顎鬚を生やしていたといいます。成人になっても童形をした人

  • 此道の一大事ハ、和漢之さかいをまきらかす事: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「"ほんもの"の生活?」の続きとして。 物を物としてだけ見るのはそれほどむずかしくありません。他人の物、それも見ず知らずの人の物を、単なる物として割り切るのは容易いことです。他人の物を、単なる物だと割り切って作るなら、ものづくりはだいぶ簡単になる。それは単に機能を満たせばいいし、多少は好みを考慮したものにすればいい。 ただ、自分の物だとそうもいかないことがあります。大切な人からもらった物、長年使って愛着が染み込んだ物、そうした物は果たして単なる物なのか。そうした物を、同じ型の新しい物と取り換えてあげるといわれて素直に「うん」といえるかといえば、いえる場合もあればそうでない場合もあるでしょう。古くなっても捨てられなくなることもあります。 「"ほんもの"の生活?」で紹介したカス

  • "ほんもの"の生活?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「誰かの家のインテリアデザインをしようとしたら、施主がどんな人柄で、何人女がいて、何人子供がいて、どんなを読む人で、人生に何を求めているかなど、その人となりのすべてを知らなければなりませんからね」 これがアキッレ・カスティリオーニが他人の家のインテリアをつくるのを「無理な話」という理由だそうです。 家というのは一挙にできるものではない昨日、紹介した『アキッレ・カスティリオーニ 自由の探求としてのデザイン』にはこんな一文もある。 家というのは一挙にできるものではない。建築家がすべてつくって鍵を渡す瞬間が家の完成時ではない。家とは時間をかけて少しずつそこに住む人の人生とともにつくられていくべきものなのだ。 こんな考えをもっていたカスティリオーニだから住宅のインテリアデザインの