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mediaに関するgitanezのブックマーク (62)

  • 新しいメディアがもたらす感覚と、古い思考のギャップの間で|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    「第一次世界大戦が起きた原因のひとつに外交の失敗があり、その失敗の原因のひとつが、外交官たちが電信の量と速度についていけなかったことである」とスティーブン・カーンは『空間の文化史』のなかで書いている。 マクルーハン的メディア論がベースになった僕のモノの見方的には、こういう話は大好物だ。新たなメディアが更新する拡張された人間の感覚が、その感覚を用いる人々の古い思考をあっさりと超えていく。そして、その感覚と思考のギャップが、時として悲劇的な勘違いを生じさせてしまう。 冒頭に言及された第一次世界大戦の要因をつくった1914年の状況もまさにそうしたギャップが生み出したものだ。 1914年に外交官であった貴族やその侍従たちはいろいろな意味で頭が古く、新しい技術に対して及び腰であった。一部の将軍が最新の武器や戦略に消極的な態度をとったのと同じだった。将軍たちが長距離砲弾や機銃の威力を理解できず、騎兵隊

    新しいメディアがもたらす感覚と、古い思考のギャップの間で|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 情報に包まれる|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    今日、ふと思った。 映しだされた情報を見るか、情報を身体に浴びるのか。そんな2つの情報への接し方がある、と。 前者はこちらが見ているのだが、後者はあちらから見られているという感覚。あるいは前者は情報を得るためフォーカスしてるのだが、後者はぼんやりと情報に包まれているような感覚。 マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』で、活版印刷以前と以降を比べて、光との関係で論じていたことから連想したイメージだ。 視覚とそれ以外の感覚「グーテンベルク以後、視覚があらたに強調されたために、すべてのもののうえに光を要求することとなった」とマクルーハンはいう。 一方で、グーテンベルク以前の中世人なら「瞑想によって聖なる光を見るのではなく、それを浴びるのだ、という風に考えたであろう」と書く。 この対比。これは視覚情報と聴覚情報の違いだと想像するとイメージがわくはず。目は情報をこちらから拾いに行くが、耳は向こうか

    情報に包まれる|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 考えるための道具の修辞学: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 どのように考えるかは、どんなツールを使って考えるか?に大きく依存する。 たとえば、普段の仕事で、何らかの提案資料やプレゼンテーション資料をまとめる際も、いきなりパワーポイントやキーノートのようなプレゼンテーションツールを使ってその内容を考えるのか、そうではなく、最初はテキストエディターで伝える内容を文章で書きだす作業をしたあと、プレゼンテーションに落とし込んでいくかで、単に作業効率だけでなく、考えることの内容自体が実は大きく異なるということに気づいているだろうか。 見映えという面までいっしょに作りこむことになるプレゼンテーションツールだと見映えのフォーマットにどうしても思考は制限されるが、文章のみで考える場合、そのフォーマットの制約を受けずに思考が可能になる。 紙の上などで

  • 未知を知へと変換する「生きた知識」のための劇場: DESIGN IT! w/LOVE

    17世紀に流行のピークを迎えることになる、驚異の博物館に関するこの定義は、16世紀の後半に書かれた、クヴィッヒェベルクによる『壮大なる劇場の銘または標題』(1565)の冒頭に示されたものだといいます。 そして、その比較的早い段階においてなお、この博物館が知識を手に入れることを目的とするものだということがはっきりと意識されていたことがわかります。 彼がこれを書いた当時、ヨーロッパにおける珍品崇拝の地理的広がりは、その150年後ほど秩序だったものではなかった。それでも、蒐集家たちは、共通の目的によって、国境を超え、個々の財力に応じて、「蒐集家の共和国」というべきものを形成していた。彼らは「すばらしい知恵と結びついた、世界に対する真実かつ独自の理解をすみやかに、容易に、安全に手に入れる」ために、世界を標化するという唯一の目的を共有していた。 ここで注目すべきは、当時の人々が、小さな部屋にさまざ

  • 僕たちはいつも間違えてる、だから…: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 失礼ながら、年末の挨拶も書かないまま、新年に突入した当ブログ。昨日から仕事のほうでも通常営業がはじまったので、こちらでも気合いを入れ直していこうと思いました。 きわめて不定期に、大して裏取りもせずに思いつきをしたためている当ブログではありますが、読んでいただいているみなさんに興味をもってもらえる記事を書いていこうといつも思っておりますので、2012年もぜひ DESIGN IT! w/LOVE をよろしくお願いいたします。 ついでに会社のほうで担当しているブログ「市場のお手入れ」のほうもよろしければご覧ください。ペルソナやエスノグラフィーなどの人間中心設計、デザイン思考関連の記事はそちらのほうで書いておりますので。 というわけで、ご挨拶は簡単に終わらせていただいて、題。 今

  • 人を魅了する見かけが、コミュニケーションの仕掛けをわかりやすくするとともに、大衆を欺く: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日、仕事大阪に出張したのですが、時間の都合がついたので、ついでに日三大祭りのひとつに数えられる天神祭をすこしだけ覗いてきました。真夏の炎天下のもとでの祭りっていいですよね。こんな風に獅子舞も行列に加わっていました。今年は縁あって、おなじ三大祭りのひとつ祇園祭も鉾立ての時に顔を出せたのですが、やっぱりこういう祭りの体験っていいなと思います。 さて、話はいきなり変わりますが、すこし前ですが、こんな記事を読んで、なるほどと思いました。 小説家の平野啓一郎さんとプロダクトデザイナーの山中俊治さんの対談です。 その中で、平野さんがこんなことを言っています。 読者の声を小説のインターフェースにどう反映させるかを考えたときに、僕はコンピューターのインターフェースの感覚が、今の読者の

  • 無文字社会に生きる人びとに目を向けると、文字通り、リテラシー=読み書き能力が人間の思考や社会生活を変えるのだということに気づかされる: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 今日、昼べながら、ふと思いました。 話し言葉社会に生きるロシア人スパイは、果たしてクックパッドを使うことができるのだろうか?と。 昨夜「話しことば社会への回帰だろうか?」という記事で話し言葉社会に生きるロジア人スパイは頭の中で考えることと身体を通じて外部化する行動が分離していないがゆえに、裁判で「現実に行なったスパイ行為のためというよりは、頭のなかでたんに意図したという廉で自分の罪状を全面的に認めた」という話を紹介しました。 昼べながら気付いたのは、ロシア人スパイが思考と行動が分離していないのならクックパッドは使えないはずだということです。だって、事をすることを考えることは彼らにとって実際に事をするのと変わりません。であれば、きっと情報を検索しているだけでお

  • 話しことば社会への回帰だろうか?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ここ数日、頭のなかでまとまりきらないけれど、何かこれはことばにしないといけないと感じるようなもやもやした現象に意識が奪われています。もやもやしてるのでなかなか記事にできずに困っているのですが、これはすっきりとまとまった話に落とし込むのは、相当時間がかかるだろうと断念し、今日もやもやのままをことばにしようと思います。なので、いつにもまして読みにくい文章だとおもいますが、そのあたりはご了承を。 さて、以前、「版(version)の危機」というエントリーで書いたように、僕はTwitterやFacebookのような最近のソーシャルメディアのコミュニケーションを、おしゃべりだと思っています。話しことばを使う、会話をするという意味でおしゃべり。 そして、共感のメディアだとも言われるソー

  • 人間や社会にどんな知的ソフトウェアがインストールされているかを知り、それが変更されると何が変わるかを想像できるようにすることの必要性: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 はい。今までで一番長い記事タイトルじゃないでしょうか? 最近、読み始めたウンベルト・エーコとジャン=クロード・カリエールという2人の博覧強記の愛書家の対談『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』の序文はこんな文章ではじまっています。 「これがあれを滅ぼすだろう。書物が建物を」 ヴィクトル・ユゴーのこの名言は、『ノートルダム・ド・パリ』に出てくるパリのノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロの言葉です。おそらく建築物は死にませんが、変貌するある文化の象徴という役割を失うでしょう。「それに比べて、思想が書物になるのには、わずかの紙とわずかのインクとペンが一あれば充分だということを思えば、人間の知性が建築を捨てて印刷術を選んだからといって、どうして驚くことがあるだろう」。

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  • メディア論―人間の拡張の諸相/マーシャル・マクルーハン: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 2010年大晦日。 今日は、1980年12月31日に亡くなった、カナダ出身の英文学者であり、文明批評家であるマーシャル・マクルーハンの没後30年にあたります。 そして、明日になれば、1911年生まれのマクルーハンの生誕100周年を迎える。 その節目の今日こそ、これまで何度となく取り上げてきたマクルーハンの『メディア論―人間の拡張の諸相』を紹介にふさわしいのではないかと思い、このエントリーを今年の最後のエントリーとして選びました。 書でマクルーハンが「話されることば」や「書かれたことば」、「道路と紙のルート」、「数」、「衣服」、「印刷」、「漫画」、「印刷されたことば」、「写真」、「新聞」、「自動車」、「広告」、「タイプライター」、「電話」、「蓄音機」、「テレビ」などのさまざ

  • 新しいことばのデザインパターンの追求: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 すこし時間があきましたが、前回書いた「版(version)の危機」の話の続きをしましょう。 前回は、電子書籍とさらにその先の時代を考えると、「大量生産」や「版」という概念が危機を迎えるのではないかという話をしました。活字印刷という、あらゆる機械生産に基礎をおく大量生産の原型が、電子書籍という形態によって危機を迎えるとともに、様々な物理的形態を持ったプロダクトがソフトウェア化するなかで、プロダクト自体の生産が機械生産による大量生産とは異なるものになってきています。 マクルーハンは『メディア論―人間の拡張の諸相』のなかで、"同じ物"という僕らが当たり前と思って過ごしている概念に、こんなエピソードを紹介しています。 マーガレット・ミードが報告しているところによると、同じ書物を太平

  • メディアはメッセージである: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 マーシャル・マクルーハンのあまりに有名すぎる格言、「メディアはメッセージである」。 これほど有名ではあるが、その意味はほとんど理解されていないか、誤解されているの言葉というのも珍しいのではないだろうか。 マクルーハン自身は、著書『メディア論―人間の拡張の諸相』のペーパーバック版の序文にこう書いている。 「メディアはメッセージである」というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。この新しい環境の「内容」は工業の時代の古い機械化された環境である。新しい環境は古い環境を根的に加工しなおす。それはテレビ映画を根的に加工しなおしているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ。 映画に対して新しいメディアとして登場したテ

  • マーケット・インサイト|株式会社コプロシステム

  • インストールされた想像力: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 外の世界とは無関係に、人の頭のなかで世界が拡張していく。 認知科学者ドナルド・A・ノーマンの「よいデザインの4原則」のひとつに「よい概念モデル」という項目があって、そこでは実際の道具が採用している働き方や意味のモデルが、それを使おうとするユーザーが頭のなかで想像する概念のモデルとができるだけ乖離なく一致していることが、ユーザービリティ的な価値観でみた場合の「よいデザイン」の条件とされるが、これもそもそも「外の世界とは無関係に、人の頭のなかで世界が拡張」できる想像力が、現代を生きる人間にはインストールされているがゆえのデザインの課題である。 僕ら現代人はこの内面にある想像力を生来のものと考えがちだが、「現代を生きる人間にはインストールされている」と書いたとおりで、実はそうでは

  • ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「音を表わす書記法はすべて水平に書かれ、形象を表わす書記法は、中国の表意文字やエジプトの象形文字も、垂直に書かれる。さらに形象に基づく文字体系では、縦行は右から左へ読み進むのが一般的である」。 書『ポストメディア論』は、『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』や『グローバル・ヴィレッジ―21世紀の生とメディアの転換』などの著作で知られるメディア論の父、マーシャル・マクルーハンの後継者であり、トロント大学マクルーハン・プログラムのディレクターをつとめるデリック・ドゥ・ケルコフによって1995年に書かれたもの。マクルーハンの後継者というポジションを示すかのように『ポストメディア論』と題された、このテレビやインターネットなどのテクノロジーによって拡張された人間の知覚やそれ

  • テクノロジーは人間の身体の拡張として生まれ、デザインがそれに意味を付与する: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 途中まで読んでしばらく放置していたデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』をまた読み始めました。 そのなかで気になったのが「そもそもデザインとは、明確な意図をもって計画することである」という非常に納得のいくデザインの定義のあとにつながる以下のくだり。 私の理解では、デザインは、テクノロジーによって人間の身体と環境の関係が変わるとき、その関係を調整するものである。テクノロジーは人間の身体の拡張として生まれ、デザインがそれに意味を付与する。 そもそも、デリック・ドゥ・ケルコフという人は『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』や『グローバル・ヴィレッジ―21世紀の生とメディアの転換』などの著作で知られるメディア論の父、マーシャル・マクルーハンの後継者でもあ

  • 自分が見たこと・聞いたことをちゃんと言葉にできるようになるために: DESIGN IT! w/LOVE

    言語は人間心理を起動させるソフトウェア。そのソフトウェアが弱ってしまっているんですね。 見聞を言葉にすることがへたくそになっている松岡正剛さんも千夜千冊でこのデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』を紹介する文章のなかで、 「見聞」という言葉が示しているように、われわれはいつも見たり聞いたりしている。しかし、実はそれ以上にしょっちゅう触ったり、味わったり、嗅いだりもしている。 ただ、そのことを言葉にすることがすっかりへたくそになっている。そして、いやあ、言葉にならないことって、いっぱいあるんだよというふうに嘯(うそぶ)くのだ。が、これは大まちがいだ。 と書いています。 下手くそになったのは僕らの言葉にする技術が落ちたこともありますが、言葉そのものの弱体化という原因もあるはずです。 その言葉の弱体化は何を原因としてはじまったのか。 田中優子さんが『江戸の想像力』で書いて

  • 自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・後篇: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 日々大量に生み出される情報を個々人が自分で判断して取捨選択をしていくなんてことは当に可能なのだろうか? 可能だとすれば、なぜ最近繰り返し起こっている、誰かが何か間違いを起こせばよってたかってボッコボコに叩きのめすような社会的潔癖症、免疫不全のような風潮がはびこってしまうのか? そうした問題を考えていくために、前回の「自分の判断で情報の取捨選択をすることなどできない・前篇」では、境界、境目というものに着目して、中世から近世にかけての日文化における河原という境目の意味、そこに集まる芸能の民の話や江戸期に入ってからの芝居小屋や遊郭が囲い込まれた悪所の話をしました。 善と悪の共存善と悪とを分けること自体は昔からとうぜんあったことで、今にはじまったことではない。でも、かつての日