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modernに関するgitanezのブックマーク (16)

  • モダンデザインの歴史をざっと概観する2: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「モダンデザインの歴史をざっと概観する」<1・2・3> とはいえ、すぐには自由な発想の新しいデザインが生まれるわけもなく、十九世紀のデザイナーたちは歴史主義と呼ばれる過去の歴史的様式を折衷したスタイルを提案していました。過去の遺産の継ぎ接ぎです。 そうした過去の遺産にすがることなく、まったく新たなデザインの方法が近代に生み出されるためには十九世紀末以降のイギリスでのウィリアム・モリスが主導したアーツアンドクラフト運動やフランスを中心に植物などの自然の形態を用いながらガラスや鉄などの新素材による造形の可能性を模索したアールヌーヴォーを待たなくてはいけませんでした。 アーツアンドクラフト運動やアールヌーヴォーは過去の様式を恣意的に用いる歴史様式、また、産業革命の結果として大量生

  • モダンデザインの歴史をざっと概観する1: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「モダンデザインの歴史をざっと概観する」<1・2・3> 膨大な視覚表現資料をもとにこの18世紀を中心としたアーリーモダン研究を広範かつ精緻に行い、イメージング・サイエンスという新しい研究分野を牽引しているバーバラ・スタフォードという人がいます。彼女はこの時代の視覚中心の文化に、現代の分析的思考によって様々な分野がバラバラの状態で孤立した閉塞感を突き破る力を見てとります。 スタフォードが書いたに『ヴィジュアル・アナロジー』という一冊がありますが、タイトルが想起させる通り、視覚表現がもたらすアナロジーの力に着目したです。そのの中でスタフォードはこう書いている。 アナロジー化の良いところは、遠くの人々、他の時代、あるいは、現代のさまざまなコンテクストさえ、我々の世界の一部に

  • 生とデザイン―かたちの詩学1/向井周太郎: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「僕にとって向井周太郎の思想からデザインの端緒を学べたことはこの上ない幸運であった」と原研哉さんは書の解説にあたる文章で書いています。 原研哉さんは書の著者・向井周太郎さんが創設した武蔵野美術大学の基礎デザイン学科で大学と大学院の6年間を学んでいます。 このを読むと、僕が原さんのことばを読んで感じるものがあったものの原像が、すでに師である向井さんのことばとしてここに書かれているのに気がつきます。 例えば、阿部雅世さんとの対談『なぜデザインなのか。』のなかで、原さんは、直立二足歩行をはじめた人間が「空いた手で棍棒を持つのは自然だけれども、たとえば川に行けば、2つの手を合わせて水をすくって飲んだはず」といい、「棍棒」と「器」に道具の2つの始原をみていますが、この考え方もす

  • デザインと文化、あるいは、フォルムとファンクション: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 前に『ふすま―文化のランドスケープ』を紹介した向井周太郎さんの『生とデザイン―かたちの詩学1』に収録されている「モダン・デザイン」という論考は、モダンデザインと言語、文化、機能と形といったものの関係を考えるうえで、読んでいて「なるほど」と思ったので、おすそわけ程度に。 詳しくは各自、をお読みになり、それぞれが思考を積み重ねてみてください。 アルファベットと西欧合理精神まず、向井さんは「モダン・デザインの思想は西欧の歴史そのものの固有性に内在する」という、当たり前ながら忘れられている問題をきちんと捉えることの重要を指摘しています。 前に柏木博さんのを紹介した際にも書いたことですが、モダンデザインには地域や民族、階級などに縛られずに人びとが自由にものを選べるようにするユニバ

  • 東洋文化史/内藤湖南: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 原研哉さんとの対談集『なぜデザインなのか。』のなかで、イタリアで活躍しているデザイナーの阿部雅世さんは、デザインというものを日語に翻訳する際に「生活文化をつくる仕事」というふうに訳してみたらどうかということをいっています。そうしたデザインの仕事をするためには、前提として「質のいい暮らしをするためには、自分自身が、文化に支えられた生活をすることが必要」「自分の生活を支える哲学を豊かにすることがたぶん必要」ともおっしゃっています。 今年1年を振り返ってみると僕にとってこの1年というのは、まさにこの「生活文化をつくる仕事」ということを公私ともに考え実践してきた1年だったという気がします。 「公」というのは『ペルソナ作って、それからどうするの?』の出版や情報デザインフォーラム関連

  • 自分が見たこと・聞いたことをちゃんと言葉にできるようになるために: DESIGN IT! w/LOVE

    言語は人間心理を起動させるソフトウェア。そのソフトウェアが弱ってしまっているんですね。 見聞を言葉にすることがへたくそになっている松岡正剛さんも千夜千冊でこのデリック・ドゥ・ケルコフの『ポストメディア論―結合知に向けて』を紹介する文章のなかで、 「見聞」という言葉が示しているように、われわれはいつも見たり聞いたりしている。しかし、実はそれ以上にしょっちゅう触ったり、味わったり、嗅いだりもしている。 ただ、そのことを言葉にすることがすっかりへたくそになっている。そして、いやあ、言葉にならないことって、いっぱいあるんだよというふうに嘯(うそぶ)くのだ。が、これは大まちがいだ。 と書いています。 下手くそになったのは僕らの言葉にする技術が落ちたこともありますが、言葉そのものの弱体化という原因もあるはずです。 その言葉の弱体化は何を原因としてはじまったのか。 田中優子さんが『江戸の想像力』で書いて

  • 近代以前の文字はどう読まれ/見られていたのか?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ちなみに右が「君看雙眼色(君看よ双眼の色)」で、左が「不語似無憂(語らざるは憂なきに似たり)」と書かれていて、それぞれ良寛の書。 松岡正剛さんの『外は、良寛。』に載っているものです。 「読む」以外の文字の機能とは?こういう文字を目にして、あっ、またしても読めないと思うとき、いったい、識字率ってなんなんだろうって思います。 活字に慣れてしまった僕らだから読めないのか? それとも、こんな字ばかりだったから昔は識字率が低かったのか? いや、毛筆の文字が読めないのは、きっと臨書体験の少なさも影響しているのでしょう。いろんな人の書いた書を臨書でもして、文字を深く見ることがなければ、草書で書かれた文字をわかることはできないのではないかと思っています。 それにしても、なぜ、このように読み

  • 近代文化史入門 超英文学講義/高山宏: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日の「バガボンド(放浪者)の経験知」というエントリーでも紹介しましたが、高山宏さんの『近代文化史入門 超英文学講義』というは、すでに「デザイン関係者必読の」として紹介させてもらった『表象の芸術工学』同様、ぜひ読んでおきたい一冊です。 『表象の芸術工学』が神戸芸術大学でデザインを学ぶ学生、院生に対する講義の収録だったのに対して、このでは、高山さんが来専門としている、18世紀英文学が中心テーマとなっています。しかし、高山さん自身が「プロローグ」で以下のように書くように、その範囲は「英文学」などという領域をはるかに超えています。 これから、急ぎ足ではあるが、ぼくが30年かけて考えてきた「英文学」について記す。しかし、そのカヴァーする範囲は、いわゆる文学の領域を大きく「超

  • デザインの現場に元気がない理由?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 そんなこと思うの僕だけなのかな、とか思っていたら、やっぱりいまの世の中、プロダクト系のデザインが元気がないと感じている方はいるそうです。 元気がなくなるのはとうぜんで「売れるものをつくる」ということ以外に行動哲学がないわけだから、身体が元気よく動くはずもないんですよね。数字ばっかりいじくりまして、未来予想の出来そこないのようなことをしても、「何を作るのか?」という答えなんて見つかるはずはないですから。デザインの場合、未来を予測するんじゃなくて、自分たちがつくる未来を想像することが大事なんですから(「どういう世界を実現したいのか。そのために何が必要か」参照)。 もちろん、数字をいじくるなとかいうことではないんです。それはそれでもちろん必要です。デザインばかりが仕事の方法じゃな

  • personadesign.net - このウェブサイトは販売用です! - personadesign リソースおよび情報

  • ペルソナスクエア連載>1-2. バウハウスとユニバーサル・デザイン: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「ペルソナスクエア」の連載「ペルソナ作ってそれからどうするの?~ライフスタイルを提案するユーザー中心のデザイン~」で、新しい記事が公開されました。 1-2. バウハウスとユニバーサル・デザイン:http://www.personadesign.net/square/2008/05/12.html 「"化けもの進化"したものは破棄がおすすめ。」で「この辺に関しては明日か明後日あたり「ペルソナスクエア」の連載で話題にするので、そっちを参照してくださいな。」と書いたものです。 前回の「近代デザインが描いた未来のライフスタイル」では、自由・平等・博愛の近代主義の流れにのった近代デザインが、旧来の制度に縛られた生活様式から人びとを解放するために、誰もが自由に好きな生活様式を選択できる

  • ペルソナ作ってそれからどうするの??ライフスタイルを提案するユーザー中心のデザイン?(1-2. バウハウスとユニバーサル・デザイン)| 棚橋弘季(株式会社イード )| ペルソナス

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  • "化けもの進化"したものは破棄がおすすめ。: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 いま、ちょっと調べ物をしていたら、とんでもないものを見つけてしまいました。 松岡正剛さんが「千夜千冊」のサイトで、柏木博さんの『モダンデザイン批判』の紹介をしてるページです。 とんでもないものってのは、これ、これですよ。 なぜなら、これらの「もの」たちはその大半がすでに情報化をおえて、ただ都市店舗の棚と電子端末との棚で「待つだけのもの」にまで"化けもの進化"してしまったからだ。 これではリサイクルもエディティングもまにあわない。破棄がおすすめだ。そんなところを覗かないようにするしかない。 まぁ、デザインとかに関わっている人からすればとんでもないこと書いてくれてます。だって「破棄がおすすめ」、「覗かないようにするしかない」ですからね。でも、これがまた真剣にデザインを考えている

  • 手入れの思想: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 養老孟司さんは『人間科学』のなかで、西洋や中国などの都市のように城郭という明瞭な境界をもたずに、自然から人工につながる都市をもつ日社会においてその境界に位置する「田んぼ里山」に注目しています。 そして、自然と人工の入り混じった中間形態としての「田んぼ里山」を成立させた思考こそが日の思想であろうといって、それを「手入れの思想」と呼んでいます。 手入れとは、自然のものに「手を入れて」、できる限り自分の都合のよいほうに導こうとする作業である。そのためには、明瞭な前提が必要である。 それにはまず対象である自然の存在と自律性を認め、それを許容しなければならない。「仕方がない」とは、自然の負の面を認めざるをえないときにいわれることは明らかであろう。 『人間科学』というで、養老孟司

  • ユーザー中心のデザインの最初には明確な哲学・ヴィジョンが必要であるという意味: DESIGN IT! w/LOVE

    興味深い疑問なので反応しておきます。 が、ここで分からないのが「豊かさ」ということはどういう基準によって計られるかということだ。もちろん、「楽しい」ということの基準も不確かであるが、直感的には感じ取れる。が、自分が豊かであると感じるのはどういう瞬間であるのだろうか。 まず、ここで書かれている<「豊かさ」ということはどういう基準によって計られるか>という疑問自体が非常に「近代」的だという気がしています。僕が最近使っている言葉でいえば「ユニバーサル」なもの、「普遍的な」規格を想定してしまいすぎる病にかかってしまっているのだと思います。 近代が目指した一元的な規格化近代の取り組みは良くも悪くも、 ドイツで1920年代に登場した機能主義の建築とデザインは、別名「国際様式(インターナショナル・スタイル)」と呼ばれるように、歴史文化の違いを超越した客観的「規格」であるところに、その世界的な浸透力があ

  • 近代デザイン史/柏木博編・著: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 どうしてこんなことになってしまったのか? 下記で紹介してきたようなを読むと、かつての日にはいまのものづくりとは異なる、暮らしのデザイン手法、ものづくりの方法が確かにあったことがわかります。しかし、それがいつしかすっかり失われてしまいました。 茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁普通のデザイン―日常に宿る美のかたち/内田繁ふすま―文化のランドスケープ/向井一太郎、向井周太郎庭と日人/上田篤鯨尺の法則―日の暮らしが生んだかたち/長町美和子デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く/内田繁/松岡正剛 編著玩物草子―スプーンから薪ストーブまで、心地良いデザインに囲まれた暮らし/柏木博 もちろん、それが失われた時期はわかっています。何がそれにとって代わったのかも。しか

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