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senseに関するgitanezのブックマーク (57)

  • 感受性と行動力: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 風邪をひきました。発熱と咳で月・火曜日はほとんど動けず、どうしても外せない仕事の所用に顔を出した程度。ほとんど寝て過ごしました。今日は熱も37度前半に下がってすこし楽になりました。 というわけで、外部からの風邪の菌の侵入に身を犯されるのはつらいですが、その一方で、僕らはもっと外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力をしていかないといけないのでは、と思います。 まず、情報に対してよそよそしすぎてはいけない。 そして、インプットばかりでアウトプットがないといけない。 外部からの刺激を自分の身で引き受ける努力というのは、インプットの問題ではなくアウトプットのほうの問題です。受け入れるというのは実はいったん引き受けた情報を編集・変換して外に出す作業をいうのだと思います。 「なぜシャ

  • 山水思想―「負」の想像力/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「日画の将来はどうなるんだ」 「ぼくはもう一度、雪舟から等伯への道程をたどってみたかった」 そんな1970年に亡くなった日画家・横山操の最期の言葉を出発点として『山水思想―「負」の想像力』というは、「雪舟から等伯への道程」を追いながら、中国から渡来した水墨画がいかにして日の水墨画となったのかを問います。そして、そもそも中国における水墨画において「山水」とは何であり、日はそれをどう日の山水に変換したのかと、日における山水画の変遷を辿ります。 とはいえ、ここでの「日画」の「画」の部分は何に置き換えて読んでもいいと思います。日デザインでも、日製品でも、日ITでも、日技術でも、日のブランドでも。いや、そう置き換えて読むことができるかどうかがこのを読む

  • あなたはオペレーターですか? デザイナーですか?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「大事なのはトータルな視点での創造する力であって部分的な方法ではない。」に、こんなコメントをもらいました。 グラフィックデザインの場合に限って言えば下積みの期間もなく簡単に線が引ける様になって、結構誰でも一人でコントロールできる工程が格段に増えました。 コントロールしようと思えば、どこまででもコントロールできるようになってしまっていて、今まで気にしていなかった部分まで気にしなくてはいけなくなったのでは? と思っています。 僕が「来身体から切り離せないはずのデザインという行為を、やたらと機械や方法論のほうに切り出してしまっていて、それゆえに全体が見えなくなってしまっている感はないでしょうか? 手で線を引いていた時代には見えていたものが見失われていて、ユーザー中心デザインなる

  • 空海の夢/松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 木から降り二足で立ち、直立歩行ができるようになった裸のサルは、両手が自由になって道具を操ったり指折り数えることができるようになり、目線が高くなって遠くまで見渡せる両眼視を手にいれ、声帯筋が直立することで声の分節化が行えるようになり、その声の分節パターンが大きくなった脳に記憶されることで言葉を操れるようになりました。 しかし、 まったく「坐る」とは東洋の恐ろしい発見だったと思う。 今日、暗く冷たい伽藍のなかの如来像や阿弥陀像をみてもわかるように、仏僧たちは直立歩行で自由になった手を結びなおし、両眼をあえて半眼のソフトアイにして、繰り返し経を唱えることで自由な発話・思考から離れることで、進化を抑制しようとしていたようにさえ思えます。 土橋寛さんの『日語に探る古代信仰―フェテ

  • 木に学べ―法隆寺・薬師寺の美/西岡常一: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 先に「ほんまに賢いゆうのはどういうこと?」でも紹介しましたが、『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美』は、法隆寺、薬師寺の修復・復元に関わり、最後の宮大工棟梁といわれた故・西岡常一さんが77歳当時(1985年)に語った話を口述筆記した一冊。 これを単なる仏教建築に関するだと思ったら大間違い。ものづくりをする集団をまとめる棟梁として、木のこと、人のこと、そして、神や仏のこと。すべてにおいて学ぶものがあります。 「棟梁は、木のクセ見抜いて、それを適材適所に使う」ことと語る西岡さんは、また「木のクセをうまく組むためには人の心を組まなあきません」とも言います。 ふつうの大工と宮大工の違いを「仕事とは『仕える事』と書くんですわな。塔を建てることに仕えたてまつるということです。もうけとは違い

  • ギリギリの経験が高めるアンテナの感度: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ブログを見ていると、たまに書くネタがないとか書いている人がいます。 ただ、それはネタがないんじゃなく、ネタを見つける感性が足りないんだと思うんです。 自分が興味をもって考えることができる、そういうものを日々の生活のなかで見つける感性が育てられていないということなんではないでしょうか。とうぜん、それはブログのネタが見つからないという局所的な問題ではなく、自分を成長させるとか高めるとかいう点で大きな問題だったりします。 ネタが見つからないのは、世界を見る視点、感じる感性を育んでいない自分自身の問題それこそ毎日生きていれば世の中にはブログのネタにできそうなことなんて山ほど転がっています。それが見つけられないというのは視力の問題です。山ほどネタが転がってる世界を自分自身で感じること

  • アニミズムすぎるくらいがほんとうのアフォーダンスでは?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 僕もそれがほんとうだと思う。 松岡 かつて才能というものは日の場合、「才」が全部物質の中にあったんです。それを「才(ざえ)」と呼びましたけれど、石に才があり、木に才があり、花に才があり、釘に才がある。それをはたらかせるというのがモーメントとしての「能」という字なんです。それが、やがて能をはたらかせる人に才能があるというように、どこからか変わってしまった。でも、石に才能があるほうが、ほんとうだと思うんですよ。 さっき盆栽に水をやろうとして手を滑らせて鉢を割ってしまったような僕のような人間にとっては、どう考えても「才」が自分の側にあるとは思えない。それどころか、モーメントとしての「能」の力のかけ加減も間違えて鉢を割ってしまうんですから。 石に才があり、木に才があり鉢を割ってし

  • 二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑/佐治晴夫、松岡正剛: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 なんで、いままで、このを読まなかったんだろう。そんな後悔をしてしまうくらい、読んでよかったと思えるでした。 松岡さんの対談は、これまで内田繁さんとの『デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く』や茂木健一郎さんとの『脳と日人』を読みましたし、佐治晴夫さんの対談も養老孟司さんとの『「わかる」ことは「かわる」こと』を先日紹介したとおり、どれも面白く、とても興味を惹かれる内容でした。 でも、このはそのどれにも増して、素敵な一冊でした。20世紀の終わり(このの元になった対談は1997年の3月から1998年の3月の1年間で6回に分けて行われています)に1日の終わりに位置する「トワイライト」を1つのキーワードにして行われた対談は、佐治晴夫と松岡正剛という2人の人間による声の重な

  • なぜ目に見えない青が写真に写るのか?:情報と感覚についてのちょっとした考察・前篇: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、ひそかに続けているのは夕刻の暗くなる時間を写真に撮ることです。 別に被写体はなんでもいいんです。その時間に写真を撮るのが目的です。いまのところ思い出した時に撮ってるので時間はバラバラですし、写真を撮るのを忘れてしまうこともあります。 何がおもしろくて、そんなことしてるかというと、その時間に写真を撮ると目には見えてない青が写真に写るからです。 綺麗な青を探してそんなことをしてるわけですが、いまのところ、京都で撮ったこの青が一番好きかな。 偶然撮れたこの色が撮りたくて、こんなことを続けてるんですけど。 ところで、こんな風に目に見えない青が写るだけじゃなくて、それとは逆に、写真って「あっ、この風景きれいだから撮ろう」と思っても、実際撮ってみたらイマイチってことありますよね。

  • 物を見るには物差など持出さずともよい: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「どういう世界を実現したいのか。そのために何が必要か。」というエントリーで、想像力を鍛えるための教育方法として他者との対話、外部の観察を重視した方法がありうると書きました。今日はその「対話」ということについてもうすこし書いてみようと思います。 日常の行為のなかの対話なぜ対話なのか? それは対話が人が思考するうえで行っている基的な行為だからです。 ノーマンの「行為の7段階理論」ではありませんが、人は自分以外の外界のものと接するとき、対象となるものとの対話のなかで自分の行為とその目標のマッチングを常に行っているといえます。 わかりやすく例をあげると、楽器を弾く場合などがそうです。自分の楽器の操作(鍵盤を叩く、弦をはじく等)と楽器から出た音を常に比較しながら、自分の行為を修正・

  • 直観とか感性とかについてもうすこし考えてみたい: DESIGN IT! w/LOVE

    この言い方は「なるほどな」と思いました。 柳は、美の性に触れるには何よりも「直観」の力が不可欠であると説いた。この場合の「直観」とは、「主観」とは違う意味のもので、人間が来持っている美を感受する能的な力を意味している。 個に属する美的価値判断とは別に、種としての人間に属する美的価値判断を考えるということ。 ここでいう「柳」は、バタフライスツールのデザインで有名な柳宗理さんのお父さんで、日民藝の父ともいえる柳宗悦さんを指しています。 日各地をまわり無名の工芸品を蒐集して、それらを収蔵した日民藝館をつくった柳宗悦さんは、何より民衆が「用」のためにつくった工芸品に対して「直観」的に美を見出した人です。 1/fゆらぎと人が感じる心地良さ「人間が来持っている美を感受する能的な力」としての「直観」。 それは、「アナログな刺激のある暮らしに憧れて」で紹介した佐治晴夫の研究する、1/fゆら

  • どこを見て、何を聞いて仕事をしてるか?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 これ、よく言われることではありますけど、どこ見て仕事をしているのかってのは結構重要なことだと思うんです。 大部分の人が内部をみて仕事をしてしまっています。 内部というのは、上司だったり、社内の別の部門だったり、売上や利益やコストだったり、まぁ、矛先はいろいろあると思います。 でもね、内部を見ていくら仕事をしたってダメなのは考えてみればわかります。買ってくれるのはお客さんだし、競争相手は社内の別の人じゃなくて競合他社なわけだし、市場環境を左右するのはマクロ、ミクロ含めて、自社のコントロールが利かない外圧です。 なのに、多くの人が当に、上司の顔色をうかがったり、売上や利益ばかりを追いかけたりします。 数字なんて直接追いかけたって、儲かる仕組みにはならないのにです。 仕事はオフ

  • アナログな刺激のある暮らしに憧れて: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近ぼんやりと考えていることが2つあります。 このまま、いつまでも東京に住んでいてよいのか、もっと自然が多いところで暮らすことも考えた方がよいのか何か趣味でできるものづくりがしようと思うが何がいいかな という2つのことです。 前者はまだ先の話で、後者は割と直近の話かな。いまのところ、候補は水墨画か木彫りなんですけど。これはもうちょっとイメージを固めてからはじめようか、と。とりあえず、それまでは写真を撮ったり、絵を描いたりでつないでおこうか、と。 感覚を刺激するアナログな情報のある暮らしそんなことを思うのはやっぱり今の暮らしって感性を磨くための刺激が足りてないなってつくづく思うからです。このあいだ、京都に出かけて強烈にそう感じました。こりゃ、暮らしの環境と暮らしのなかの行動を

  • トキメキについての感性がない: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 他人事と自分事。 ものや情報、そして、他人と接していて、その対象にどれだけ「近さ」を感じることができるか。それがものづくりにおいても生きていくうえでも大事なことじゃないかと思いはじめています。 愛着、恋、親しみ。まぁ、なんでもいいのですが、自分が接する相手(人でも、ものでも、情報でも)にどれだけ身近さを感じられるか。他人事ではなく自分事として感じられるか。一体感でしょうか。それがないとものづくりも、人生も すこし前に養老孟司との対談集『「わかる」ことは「かわる」こと』を紹介した理論物理学者の佐治晴夫さんが松岡正剛さんと対談した『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』というのなかにもおなじことに触れた掛け合いがあります。 はじまりは松岡さんのこんな発言から。 松岡 たまた

  • 感じることと考えること: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 モノや仕組み、ルールなど、すでにできたもののデザインを目にして、時々、「あーこのデザイン、考えられてないな」と感じることがあります。その場合の「考えられてない」は言い換えると、使うシーンや例外的使用のケースが想像ができてないな、イメージができてないなということだったりします。また、経年変化への対応あるいは対象となる量(組織の従業員数とか扱うデータ数とか)の変化を想像せず=考えずにつくっちゃったんだなと思うんです。 うーん、そういう意味では想像力に欠けた人がつくったのかなと疑問に思うデザインのものって多いんですよね。想像力の欠如がそのままデザインの品質に影響しちゃってるし、生活スタイル・ワークスタイルに何の提案力をもたないものができあがっちゃう。ちゃんと考えてつくってます?っ

  • Webdog - Uw Online Speurneus

    gitanez
    gitanez 2007/12/30
    職人に敬意を払おう
  • 想像力とは間違いを創造的に活用することに他ならない: DESIGN IT! w/LOVE

    茂木健一郎さんは『クオリア降臨』のなかで次のように書いています。 物質である脳から意識という主観的体験の個別が生まれるミステリを解明しようとしている現代科学は、徐々に、文学が従来扱ってきた領域に接近しようとしている。その、科学と文学の汽水域の中に、科学の未来も、そして恐らくは文学の未来もある。 と。 科学と文学『クオリア降臨』を読んだのはもう1年以上も前のことですが、ずっとこの文章が気になっていました。よくある理系だ文系だという議論が無意味に感じてしまうのは、この言葉に対する共感があるせいだと思っていました。数学者であるロジャー・ペンローズが意識や心、そして、量子重力論を語るのに、計算不可能性をもちこむことに惹かれるのきっと同じ理由なのだと思います。 そして、先日読んだ『生命記号論』にもこんな心を惹かれる言葉がありました。 失敗をしてしまう傾向は、この世界におけるすべての発展の根底に横たわ